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自分軸のある人を演じてみる実験

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 ”自分を持ってる人” とか ”自分がちゃんとある人” のように言われる人ってどんな人だろう。最近の言葉で言うと ”自分軸 ” のある人。 10代のころの私は ”自分の意見が言える人 ” が、そういう人のことだと思っていた。 自分の意見を言えるということは、なにかについて「私はそれについてこう思う、こう考える」と考えることができる人のことだ、と思っていたし、 その ”なにか” は、 例えば社会問題とか環境問題とか、日常にある誰かと誰かの問題とか、クラスの中で議題になることとか、いわゆる何か特定の『問題とされること』についてだ、と考えていた節があったように思う。 そして、いまの私がどう考えているかというと、10代のころとは少し変わった。広くなったというか、深くなった。 自分を持っている人(自分軸のある人)というのは、 『問題とされること』について私はどう考えるか(=自分の意見)があることもそうだけれど、もっと日々の日常の中で、 「私はこれ好き、これ嫌い」「私はこれがしたい、これはしたくない」「私は行きたい、行きたくない」 というような単にしたいのかしたくないのか、という自分の自然な欲求希望を、自分の中に持っている人が  ”自分を持っている人(自分軸のある人)”  なんじゃないかと思っている。 しかも、常にそういう欲求希望があることに、自分自身ではっきり気が付くことができていて、もっと言うと、その欲求希望に従って実際動くことができている人。 多くの人が経験ありそうなことで例えると 「あ、12時だからご飯食べなくちゃ」と思って食べる。又は、12時なのを知っていても、周りの人が食べていても「私はいまお腹減ってないから、まだ食べなくていいや」と食べるのはやめる。前者は、自分の今の状態がどうかな?と考えず又は無視して、時間や周囲の都合の方へ自分を合わせている。後者は、周囲はこうだけれど自分はどうかな?と考えて、自分の都合の方へ合わせている。 これだけ聞くと、そんな自分勝手にしていたら周りに迷惑が…、と思うかもしれない。 この例の後者の人は、我慢していない人。周囲よりも自分の方へ合わせている人。こういう人は、身体の状態も良いだろうし、ストレスも少ないだろう。ってことは、おそらく良い気分で過ごしている時が多いだろう。そうすると、自然とやさしくなれたり、寛容になれたり、細かいことにい

日常がパラダイス = 人生がパラダイス

日常の繰り返し(積み重ね)が人生 生活の繰り返し(積み重ね)が人生 だと私は思っている。 なので「人生よくしたい」「たのしい人生にしたい」「あの人の生き方あこがれる」 とか思うのであれば、日常生活をよくすること、日常生活をたのしくすること、 日常生活をパラダイスにすること。 「日常にうんざり」という気持ちを持ったままで、『楽しい』を求めて 旅行をしたり、お酒を飲んだり、環境を変えたり、人間関係を変えたりすると 「これをしている ”時だけ” は楽しい」 「これをしている ”時だけ” は日常を忘れられる」 という『一時的な快楽』になる。 そこから日常へ戻ったら、また以前と同じ日々。 例えば楽園的なところへ引っ越ししたとしても、そこの環境に慣れてきて そこがまた日常になれば、以前の自分がムクムクと出てくる。 そしてなぜかまた以前と似たような問題を抱えるようになる。 なぜか?この理由は明らか。 まずエネルギー的観点から言うと 自分そのものが何も変わっていないので、その自分の波動(周波数)は 似たような波動(周波数)のものと共振する。 引き寄せ始める、周囲に集め始める。類は友を呼ぶ、の法則と同じ。 そして脳の仕組みから言うと、 自分の潜在意識(無意識領域)のなかに溜め込んでいるものを整理していないので、 また以前の自分と同じような思考パターン、行動パターン、情緒の揺れパターンになる。 人は潜在意識(無意識領域)にストックしている膨大なデータを元にして、 見る・聞く・考える・行動する、という脳の仕組みになっているから。 『不満な今』『こうしたいけど叶ってない今』を抱えている人が、 環境を変えること、気分転換のための何かしらをすること、人間関係を変えること、 などはとっても大切なことだと思う。 変化を求めるときは私もこれらをする。 ここで間違えちゃいけないのが こういうこと ”も ” する ということ。 外側のことだけ変えればOK、ではない。 「一時的な満足でいい」という人は、外側のことだけ変えればいいと思う。 もしくは「悩みをかかえた状態の方が好き」という人も、 やはり外側のことだけ変えればいいんじゃないかと思う。 これも好みだから。 話を戻すと、 外側のこと ”も” 変えながら、内側のこと ”も ” 変える。 内側のこと=自分の中身=顕在意識と潜在意識とエネルギー領域 そうす

願うということ

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「わたしもソロモンみたいに空を飛べたらいいなあ」 なぜ?なぜ空を飛びたいの? 「いつも地面の上を歩かなきゃいけないなんて面白くないよお。すごくゆっくりだし。いろいろな所へ行くのにもすごく時間がかかる。それに見えるものも限られてる。地面の上にあるものだけしか見えなくて、つまらない」 あのねえ、サラ、君は僕の質問にちゃんと答えていないみたいだね。 「あら、答えたわよソロモン。わたしが言ったのは、空を飛びたい理由は・・・」 面白くない地面の上を歩き回るのが好きじゃないから、だろう?あのね、サラ、君は『なぜ君が空を飛びたいのか』を話したのではないんだ。君が僕に話してくれたのは『空を飛べないことを君が嫌だと思う理由は何なのか』ということだ。 「どこが違うの?」 ああ、サラ、大きな違いだ。もう一度、答えなおしてごらん。 引用 ”サラとソロモン”   エスター&ジェリー・ヒックス著 この部分を読んで、わたしは心が熱くなった。 なにかを願うとき望むとき、そうする/そうなると決めるとき、この部分はとっても大切なポイントになると思うから。 心がなんだか熱くなったということは、もしかして私も分かっていたつもりだったりとか、 できていない時があったりするのかもしれない。 なにかを願いながら、同時に、それが叶わない場合どういったことがあるか、 ということにフォーカスしていたら(それについて話したり考えたり「うわーやだ」と感じていたりしていたら)、 そっちが叶ってしまい、願っていた方は永遠に叶わない。 それが宇宙の仕組みだし、素粒子や波動の仕組みだから。 長く、強く、感情を伴って、考えたり思っていたり想像していたりしていたことが叶う。 それが自分にとって、都合が悪いことであろうが良いことであろうが、関係ない。 宇宙はシンプル。 ソロモンは上に引用したやり取りの後、もう少し会話があって、その後こう言う。 そうだ、サラ、その調子で、なぜ君が空を飛びたいのかを話してごらん。それはどんな感じがする?どういう風に感じる?それがどんな感じか僕にも感じられるように話してみてごらん。空を飛ぶことはどんな感じがする?地面の上にいることがどんな感じかとか、空を飛べないことがどういうことかについて話すのではなくて、空を飛ぶことがどんな感じがするかを、僕に話してほしいんだ。 それを聞いてサラは、もし自分が空を飛んだら

香りは装身具にもなり戦略的にも使える

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下部の ”なぜ香りなのか?” は、先日、私のホームページの調香セッションのページに補足で追記した内容。 この投稿の前いくつかにわたって書いた脳とか感情などについての 投稿にも関係しているので、 両方読んだ方はつながりが感じられると思います。 潜在意識、思考、感情、メンタルなどに、とてもとても関りがあるのです。 ーーーーー なぜ香りなのか? 味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚。このなかで嗅覚はとてもユニークな動きをします。 嗅覚以外の感覚は、それを感じると、 まずは理性・思考・分析・言語などを司る左脳へ信号が伝わります。 しかし嗅覚だけは左脳を通らず、 本能・感情・記憶・閃きなどの右脳エリアへ電気信号が直行します。 思考でアレコレ考え始める前に、潜在意識や本当の自分へ香りの信号が届くということです。 このページの上の方に「香りでできることの例」を載せていますが、マインドセットも気持ちの切替も自分軸の強化も、こういった理由の元、香りのサポートによって深い部分でそれができるわけです。 アレコレ考えず頑張らずシンプルに、ただ単に香りを嗅ぐだけでそうなる。 体の仕組みにのっかるだけなのでとても楽で簡単です。 しかもその香りは植物の香りで、しかも自分用に調合された香りであったら、 より一層「自分に届く」そして「自分と響き合う」と、私は感じています。 ※植物の香りが良くて化学合成の香りは悪い、とは一概には言えません。 使い方や使う量、個人差など様々なことのバランスで、危険性や合う合わないが変化します。 ーーーーー 服、靴、鞄、ジュエリー、お化粧、などと同等の感覚で、装身具のひとつとして香りを使うもよし。または上記の仕組みから、自分の脳に対して意図的、戦略的に香りを使うもよし。 どちらにしても、気分を変えてくれるもの、であることは間違いありません。

右脳と左脳

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感覚や芸術は右脳、考えたり計算は左脳、と言う。 右脳人間、感覚人間、完璧左脳の人、とかいう言葉も聞いたことがある。 私はインスタの点描曼荼羅アカウントの方で以下のようなことを投稿することが時折あります。 「右脳も左脳も両方を使っていくんですよ」 「直感を使って描くけれど、どうやったらどんな点が描けるか左脳を使って考えて、手を動かして実験して、どうなるか観察するんですよ」 右脳も左脳も、それぞれ役割が違うわけなので、使い分けていけば良い。 現代の特に日本では、左脳を活躍させている人が多いと思う。 活躍させすぎて左脳が過労死するんじゃないか、くらいに使い過ぎていると感じています。 感覚派の人は、ちょっとバカにされる感じが強い時代もあったかもしれない。(今もあるかもしれない) 以下の流れで、私たちの体内(体外も?)で情報の受け渡しが行われているようです。 エネルギー的なものを心(心臓のあたり)で受け取る → それを右脳で感覚的に感じる  → その”感じ”を左脳へ渡す  → 左脳がそれに理由付けしたり分析したり判断したりする → なんらかの言動や行動をする(または行動しないと決める) 右脳も左脳もどっちも必要だし、どっちかだけを使う、使わない、は 無理があるんだなと思います。 時と場合に応じてどっちも使う。 本来は、特に意図せずとも自然に両方を使えるのが通常モードだけれど、 「こうすべき」「こうした方が合理的」「前はこうだった」「普通はこうでしょ」 などで自分を固めていると、せっかく右脳で感じたものを無視して蓋をして、 いつでも左脳優先になる。 左脳優先はみんな相当やってきているので、たまには右脳優先にしてみたらどうなるか、 試してみてもいいんじゃないかなと思う。 ものは試し。実験的に、ゲーム感覚で。 何度かやってみて自分的にイイ感じであれば続けたらいいし、 あんまりだなーという感じであればやめたらいいし、時と場合でやったりやらなかったりでもいい。 浅見帆帆子さんがこんなようなことをおっしゃっていた。 「なにかを決める時、感覚だけで決めていません。割と調べます。そして調べた内容に対して、自分がどう感じるかを見ます。そして最終的に、良いと感じる方や違和感のない方を選びます。」 細かい言葉は違うかもしれないけれど、大まかにこんな感じのことだった。 感覚の右脳も、分析判断の左脳も

私の個展のお知らせ(2024年2月静岡県浜松市)

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  ∞ 個展のお知らせ ∞ 私の通うカフェで展示をさせて頂くことになりました。 在イタリア時代の一時帰国中、おいしいエスプレッソが恋しくなった時にこのカフェに助けられました。最近の私のお気に入り組み合わせは、カウンター上の焼菓子 + アメリカーノです。 飲み物で両手を温めながら、曼荼羅たちをぼんやり眺める時をお楽しみください ☕ ️ 🏵 ️ [会期] 2024 年 2 月 2 日 ( 金 ) 〜 2 月 27 日 ( 火 ) [営業日時]基本は 11 時〜 20 時、水曜は休み 又は 夕方閉店 [場所]  Instagram @westgoatcoffee  West Goat Coffee  静岡県浜松市中央区千歳町 104-2 浜松駅から徒歩5分 ◎ 入店の際はお飲物をご注文ください ◎ 作品はすべて原画の一点ものです ◎ すべて販売可能です ◎ 今回の個展限定価格にする作品もあります ◎ 作品購入は現金のみ受け付けます ◎ 購入当日にお持ち帰りいただけます ∞ はじめましての方へ ∞ 私の描く曼荼羅画は宗教画とは異なります。 宙を奏でる点描曼荼羅画 ( そらをかなでるてんびょうまんだらが ) と言い、事前にデザインを考えることなく、直感的に対称的に、すべてを点で描く曼荼羅画です。 この曼荼羅画は、まっくらな宇宙のような黒い紙の上に一粒の点を置くところから始まり、やはり一粒の点を最後に置いて終わります。それぞれの一粒は独立した点であると同時に、すべてに繋がる点でもあります。曼荼羅は平面でありながら球体でもあり、全方位への無限の広がりを持ちます。 描き手である者が自身の思考を入れずに描くことで、できあがった曼荼羅は、個人の狭い枠に囚われない世界を持つのだろうと思います。 瀬戸里絵 ____ 体験会・講座は、ご希望日時を相談いただき互いの都合を合わせて開催しています。講座は対面もオンラインも可能です。 点描曼荼羅画の販売、オーダー制作もしています。作品購入はオンラインショップ又は dm からどうぞ。オーダー制作承っています (1 万円〜 ) 。 詳しい内容は こちら をご覧ください。   ——

感情ってなんなの?

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感情 というものには、どんなものがありますか?はい、皆さんどんどん書き出してみて。 と言われたら、すごくたくさんワードが出てくると思うけれどどうでしょう。 うれしい、たのしい、おもしろい、イライラ、モヤモヤ、さみしい、ざいあくかん、 きもちいい、ふわふわする、ほんわかする、ずしっとする、ムッとする、まんぞく、 すき、きらい、なんかいや、なんかいい、等々。 じゃあ、この感情たち、それぞれどんな姿をしてますか? と言われても、見えないし物質ではないので姿はない。 姿はないけれども、絶対に存在している。自分の中から出てくる。明らかに「ある」。 感情は、エネルギーです。 電気とか電波と一緒。見えない姿形はない、けれど絶対にある。あるからネットが繋がるし、電化製品が使える。 電気エネルギー。 それで、感情。 この出てきたやつを、世の中では  ”良い感情” と ”悪い感情” 、”ポジティブ” ”ネガティブ” 、”軽い” ”重い” 、 などと分けたりするわけです。 本当は良いも悪いもないのですが、ここではその話は置いておき、 どういう時に感情が出てくるのか?を書いてみます。 感情が出現する前には、必ず、なにかを見る/聞く/体験する、などがありますよね。 例えば 「わあ!それいい!!」という嬉しい系の感情出現の前には、 「ねえ、今度この温泉宿に泊まってみようと思うんだけどどう?」 という提案があったり。 「うっわー、なんなのソレ」というテンション下がる系の感情出現の前には、 自分が全然好きではない出来事を見たり、発言を聞いたり。 でも、どんなに自分が良いと思う提案内容でも、嫌悪感を感じる出来事でも、 人によっては全然良いと思わなかったり、むしろ嫌いだったり、無反応だったりします。 何故、人によって違うのかというと、 判断基準が違うから。 これは良い、これはダメ、ここまでならOK、普通こうでしょ、当たり前じゃん などの判断です。 みんな誰でも、その人の中での良い悪いの線引きだったり、当たり前の枠が決まっている。 その線を越えてくる人や出来事と出会うと、 「ちょっと!!なんなのアレ!?ありえなくない?」とカチンときたりするわけです。 「ありえなくない?」という言葉を聞いていた隣の人は、 「え?別にいいんじゃないの?」という反応の場合もある。 ということで、 感情が発動する前には、必ず、

【補足】重い方へ引っ張られることの何がだめなのか?

 ひとつ前の投稿の補足です。質問が飛んできました。 「気分や感情が重い方へ引っ張られると、なにがだめなのか?」 まずは、 良いとか悪いとかはないです。 重い方が好きだったり、そこに浸りたい気分の時ならばそうしたらいいし、 軽い方が好きな人はそうしたらいい。 単なる好みです。 で、 私は軽い方が好きなので、自分も軽くいたいし、自分の周囲は軽い人々でいてほしい。 なので、重さを取る方法、軽さをキープする方法などを教えているわけです。 突然ですが、私の活動の目的は『地球平和』です。 私の想う地球平和とは、 個人個人が精神的にも体的にも自由で、それぞれが好きなことをしていて、 それぞれが自分の満足感の中に生きていて、それぞれ尊重しあっていて、 それぞれ感謝の気持ちを持って、地球と共に生きている 言葉で簡単に言うとこんな感じ。 それで、 この地球平和の状態になるためには ”類は友を呼ぶ” の法則を大活用することで、 私一人からでも、そこのあなた一人からでも、可能なのです。 波動とか量子力学のことを知っている人ならば(学者レベルでなくて表面的に知っている感じでも全然OK) 聞いたことがあると思いますが、 類は友を呼ぶ、とか、似た者同士が集まる、とか、一緒にいると顔が似てくる、とか、共振とか共鳴とか、 そういったことは、なぜそうなるのかを説明できるのです。 私一人が軽い波動(エネルギーとか気とか周波数とか)になると、どうなるか? 大雑把に言うと、 私が軽い波動を発していると、類友の法則によって、 私と同じような波動の人・物・出来事が私の周りに集まってくる/起きてくる。 私一人が変化したら、私の周りも似たようなエネルギーになる。 誰かがものすごく楽しそうに大笑いしていると、 内容を知らなくてもこっちもつられて笑えてきたり、楽しくなったりする。 それと同じことです。 自分もそういう方が好きだな~、という人が講座を受講してくれて、 その人が軽い波動に変化していくと、 その人の周囲でも上に書いたことと同じようなことが起きてくる。 で、その人の周囲環境がそうなっていくので、その人自身はますます居心地がよくなって、 ますます軽い波動になっていく。 そして、その人の周囲の誰かも誰かもその波動になっていくので、 そのまた周囲もそうなっていく。 こういった連鎖が起きてくるので、 日本各地、地球のい

重い方へ引っ張られるのが通常モード

地球にいる限り、重力というものがあって、重たいもの引っ張られる。 ボーっとしていようが、意識していようが、引っ張られる。 でも、ひとつ。 重力からは絶対的に自由なものがある。 自由というのは、自分の意図でどうにでも変えられる、という意味。 それは、私たちの意識。 (ここでは、感情も思考も含めて、あえて意識と表現します) ただし、意識も同じく、放っておいたら重い方へ引っ張られるので、 意図して引っ張られないようにすることが大切。 ネガティブとされるものが重たい方向。 イライラ、モヤモヤ、違和感、恐怖感、引っ掛かり、我慢、 不快感、不満感、罪悪感 こういったものがすべて重たい方向の感情。 放っておいたら、どんどんどんどんどんどん、 この重たい感情の中へ巻き込まれ続け、 ぐるぐるぐるぐる考え続ける。 例えそこへ蓋をして見えないようにしたとしても、それは一時的なこと。 押し込められたそれらは、いつかまた必ず出てくる。 放っておいたらそうなるので、 自分で意図的に、コントロールして、 巻き込まれ続けない自分でいられるようになると、すごく快適に生きられると思っている。 その方法を私は講座で教えています。 これまでも、これからも、 日本語でニュースになっているものも、なっていないものも、 地球ではいろいろなことが起きているし、 今も進行形なものもあるし、これからも起きる。 そんな中で、 自分が自分であること。 自分を保っていられること。 しかも一時的に無理やりそうするのではなく、 自然な形で、気楽にそれができていること。Keepできていること。 それはすごく大切なことだと私は思う。 特に大人は。 身近に子どもたちがいる環境に居る大人は、さらに特に。 例えば、 重たいものを持ちながら、重たいものに引っ張られ続けながら、 好きなことをしたり、希望を叶えるために動いたりするのは、 効率が悪い。 心も体もとても元気な時などに一時的にはできるかもしれないけれど、 やはり一時的だし、柱が弱いというか、ちょっと何かあったら倒れる系。 見えないようにしたりするのではなく、 日々ちょこちょこ掃除をして澱みや曇りを取りながら、 身軽な状態で歩んでいくほうが私は好き。 そして、そういう人が周囲にいる環境が私は好きなので、 講座をして教えているし、学んで実践してくれる人が増えれば増えるほど 嬉しくてたま

中心にあるもの

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今まで割と「自分の芯をしっかりさせる」「土台をしっかりさせる」 みたいな言い方をすることが多かった。 この間あることを考えながらノートに書いた言葉があって、 その言葉が最近の自分的にとてもしっくりきた。 「自分のなかの核」 この核のイメージは、ギュー――――ッと凝縮していて、すごくパワフルで、 エネルギーがあって、生命の源みたいな感じ。 自分の可能性を制限する感情や思考のヨドミは、 日常的にメンテしながらどんどん取り去って、どんどんクリアになって、 核のエネルギーを覆うものなく生きよう。

戦いとジェットコースター

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戦うことが好きな人 戦うことが嫌いな人 戦っている人を見るのが好きな人 戦いをつくることが好きな人 戦いによってお金を儲けるのが好きな人 戦うことが好きな人を撮影する人 戦うことが嫌いな人を撮影する人 戦っている人を見て楽しむ人を撮影する人 戦いをつくった人を撮影する人 戦いによってお金を儲けている人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人 ジェットコースターに乗っている人を見るのが好きな人 ジェットコースターをつくることが好きな人 ジェットコースターに乗ってもらいお金を儲けるのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが好きな人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人を撮影する人 ジェットコースターに乗っている人を見ている人を撮影する人 ジェットコースターをつくった人を撮影する人 ジェットコースターによってお金を儲けている人を撮影する人 どのタイプを見かけることが多いか? 見かけないタイプはどれか? なぜそのタイプをよく見かけるのか? なぜそのタイプは見かけないのか?

原因と結果

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因果応報、すべて自分が源、原因と結果の法則、思考の現実化 言い方はいろいろあるけれど「起こったことには全て原因があるよ」という意味。 自分の身や自分の目の前に起こったことは、すべて自分が起点になっている。 誰かのせいでも、何かのせいでもない。 自分は無力な被害者ではない。 「これを食べたらお腹をこわした」 みたいな日常のささいなことも、その食べ物のせいではないし、 病気や事故であっても同じく。 「私は被害者」なのではない。 って、話していると 自分を責めなければいけないような気分になる人がいるかもしれない。 決して自分を責めるのではないのだけれど、 ここのところの説明をする時にしっくりくる言葉が いままでイマイチ見つかっていなかった。が、 最近、発見! 「自分を責めてくださいと言っているのではなく、 自分がつくった現実だ、ということを受け入れてください、 ということです。」 これ↑は、ミナミAアシュタールさんの話を聞いていて出てきたフレーズです。 「自分のせいなんだ」と落ち込んだり責めたりするのではなく、ただ単に、 「あ、私こんな現実つくってる」と、まずは受け入れる。 そこで終わらずそのあとが大切で、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」と考える。 加えて、 「私は本当はどうだったら心地いいんだっけ?」と考える。 「あーやばいやばい私こんな風にしちゃった」と、 グルグル落ちる方向に巻き込まれたままでいないこと。 いろいろ考えるのは当然なのだけれど、 考えるときの方向性、矢印の向きを間違えないこと。 そして忘れてはいけないのは、 「私がこの現実をつくってしまった」ということは、 「私は自分で現実をつくりだせる」ということ。 ヒーリング講座の受講生さんたちは 「現実は自分がつくっている」ということの意味や仕組みは知っているはず (覚えていなかったらテキストを読み返してネ)。 これは宗教的な考えでも、スピリチュアル的な考えでも、SF的な考えでもなく、 この世の中、この宇宙の仕組み。 いまの地球の物理学で分かっているところでいうと、量子力学の話。 私は、自分に起こる出来事を見て 自分の考えていること(考えていたこと)を知る、という時もある。 因みに、ヒーリング講座受講生さんたちは、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」の部分を 無意識下の領域からも探し出せる

ともだち100人の歌

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 「一年生になったら」 作詞:まどみちお 作曲:山本直純 ともだち100人できるかな? という歌。初めて聴いたのがいつだったのか全く覚えていないけれど、 幼稚園か小学校低学年の頃なんだと思う。 少し前に、頭の中に「ともだちの人数」についてのいろいろが やけに巡っていたことがあって、この歌を思い出した。 今の私が思うことは、友達がたくさんいなくたっていいじゃん、という考え。 そもそも友達って何だろう、と言う話になっちゃうんだけれど。 どこからが友達で、知人で、仲間で、なんだろう。 まあとにかく、 昔の私はどう思っていたんだろう?あんまり明確に覚えていないけれど、 いなくてもいい、とは思っていなかった気がする。 友達人数が多いから良い、とか、多い方が幸せ、というような雰囲気の中には 居た気がする。 ともだち100人できるかな、の歌を聴きまくっていたとすると、 おそらく脳みその中は「たくさんいた方が楽しそう/幸せそう/良さそう」という 状態になっているんじゃないか。 ちょっと言葉は強いけれど洗脳状態みたいな。 私流に言うと「思い込みが作られている状態」みたいな。 もしそういう状態になっていたとすると、 いざ小学校に入学して友達と呼べる人ができなかった場合、 親は「友達ができなくて心配、不安、大丈夫か」となる人が多いだろうし、 それが子どもに伝わって、子ども自身も「友達ができないとダメなんだ」となって。 たくさんの人と一緒にいることが好きな人と、 一人でいることが好きな人と、たった一人の気の合う人とだけ居たい人と、 みんなの中にいたいけれどちょっと離れたとこに居るのが好きな人と、 時と場合による人と、 人によってそれはそれは様々だと思う。 それに、 小学1年生のクラス分けの中に気の合う人がたまたま居ない場合もある。 いきなり気の合う人だらけの場合もある。 高校2年生くらいになって、一人だけ気の合う人が見つかる場合もある。 何かで読んだ内容で「コミュニケーション障害とされている人は、障害なのではなく、 コミュニケーションを取れる/取りたい相手がたまたま今まで近くにいなかっただけ」 とあって私は共感した。 コミュニケーションの取り方だって人それぞれだから。 ”まあまあ誰とでもなんとなく当たり障りなくコミュニケーションを取れる人”  がいわゆる「普通の人」で、それができない人は「

自分探しと自分剥がし

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「自分探し」ということで、旅に出たり、いつもと違うことをしてみたり、 気になるものを片っ端から学んでみたり。 でも。 外側のどこかには探している自分はいない。 そしてある時気づく。 「なんだ、私のなかに全部あるんだった。」 自分探し、という言葉を、自分剥がし、に変えてみる。 地球に生まれた瞬間から、周囲の大人たちによって刷り込まれていくアレコレ。 大人から刷り込まれ済みのクラスメイト達から言われる言葉たち。 自分の周りにペタペタと貼り付けていく、 常識・普通・一般的・平均的・道徳的・宗教的 などの自分を覆うラップのようなもの。 いつしかそのラップは『自分を守ってくれているもの』だと思うようになり 剥がすことが怖くなる。 変化が怖くなる。 同じようなラップを被った人と一緒にいることが安心であるかのように思う。 同じようなラップを被っていない人を見ると「変な人」だと思ったり、 「でもちょっとあこがれる」と思ったり、 「あの人を見るとイライラする」だったりもする。 自分を覆っているラップをもしも剥がしたら 何が起きると思う? どうなると思う? 私は、息がしやすくなって風通しがよくなって気持ちよさそうだと思う。 セルフヒーリング講座の受講生さんたちや、 私の個人セッションを受けた人たちが、 どんどん軽くなっていくのを見て、なんて気持ちよさそうなんだ! と思う。 そもそも、自分はラップに覆われている、と気づくかどうか。 気づく鍵は「あれ?」という疑問や違和感、モヤモヤ感。 その小さな「ん?」が起きた時、 「まあ、それが普通なんだししょうがないでしょ」 「そういうもんでしょ」 「気のせいかな」 と、流さないことも鍵だったりする。

ふと我に返る

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 なぜ? 「という問いから、すべてが始まる気がするんだよね。」 という話を友人とメッセージしあった。 友人は、次のように言っていた。 「なぜ? その先にある景色を見たいのかもしれない。 枠を壊して 新たに再構する、みたいな。」 疑問を持たなければ、そのまま自動運転的に進んでいく。 疑問を持った瞬間に、その自動運転は動きを変更し、一時停止する。 そして何をするだろう? 次の行先を考える? 進む方向を考える? ふと我に返って周りを見渡してみる? 過去たどってきた道のりを見返してみる? これを書いていて思ったが、 なぜ? それが湧き出た瞬間に、ふと我に返る、のではないかな。 我に返る。 この言葉も深いネ。

アルバニアとミラノと日本の事情

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ミラノに住んでいた時、いろんな国の人と話す機会があった。 ある日、バス停でバスを待っていたとき。 その時わたしは、日本人の友達と二人でいたので、日本語で話をしていた。 バス停にはもう一人、バスを待っている男性がいて、わたしたちに話しかけてきた。 「いま話しているのはどこの国の言葉ですか?」と質問された。 日本語だと答えて、そこからお互いが何故ミラノに住んでいるのかを少し話した。 その男性はアルバニア(うろ覚えだが確かそのあたりの地域)の出身の方で、 単身赴任でミラノに働きにきているとのことだった。 どういういきさつだったか覚えていないけれど、そこから食べ物の話になって、 男性は、故郷アルバニアの食べ物がとてもおいしいこと、野菜もお肉も生命エネルギーにあふれていること、 新鮮なものが手に入ることが当たり前だったこと、野菜への農薬、お肉への投薬など ほとんど無しに育つものが手に入ること、などを教えてくれた。 そして同時に、ミラノの食材のことを強く批判していた。お肉も薬で膨らませていたり、 農薬も使っていたり、ぜんぜん新鮮じゃなくて 云々。 私はそれを聞きながら、こう思った。 「このおじさん、わたしが今ここで日本の現状を伝えたら卒倒するんじゃないかな。 実際日本に来て、普通にその辺で売られているものがどんなものか知ったら、 目から鱗どころか、肩から首が落ちる勢いなんじゃないかな」 日本で許可されている農薬使用量や化学肥料、動物への投薬や育てる環境のことや動物が食べる飼料のこと、 イタリアを含むEUで許可されているそれらの種類や量のこと、 私は両方とも知っていたので、はっきり言ってイタリアに住むようになったときに すごく安心した面がある。普通の庶民のスーパーで、ボーっと何も考えずに食材を 買ったとしても、日本の数十倍(最低でも10倍)は安全、と知っていたから。 そして、知識として知っている状態だっただけのそれが、 日を追うごとに、体で感じるようになった。 特に舌、味覚。そして、肌感覚というか、目に見えないんだけれどエネルギー的に感じるもの。 アルバニアの男性が言うところの「食べ物から感じる生命エネルギー」とか 作り手の愛情のエネルギーとか、そういったものも以前よりもどんどん感じるようになっていった。 このバス停での数分、 日本の庶民のスーパーで買い物をしていた私が感じていた

「祈り」ながらあなたは何を想像しているか?

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以前インスタストーリーズに載せたところ、割と反応があったので、 こちらにも書き残します。 祈り、願い には、タイプというか方向性がある。 それを祈り/願いながら、自分は何を想像しているか? それがポイントのひとつ。 「転びませんように」 と祈り/願いながら、何を想像してる? 転んで痛がっている状況を想像してない? そして「転んだらヤバいわー」と怖いと思っていない? 宇宙は、この想像の通り叶えてくれる。 「オッケー! ”転んでる自分” のイメージね。叶えとくねー!」 となる。 じゃあ、例えば。 「軽やかに走っていけますように」 と願ったとしたら、何を想像する? 「オッケー!そのイメージの通りに叶えるね!」 となる。 わたしのメニューの中にある『セルフヒーリング講座』では、 こういったことも基本知識の一つとして教えています。 思考、イメージ、の方向性を間違えると、全然望まない出来事が起こる。 自分に対しても、だし、他者に対しても、世の中に対しても、同じく。 (でも脳はそれを『間違い』だと思っていないのがポイント) 祈りとか願い、 と言うと何か大きな出来事などを思うかもしれないが、 人は誰でも日々ずっとずっと祈り/願い続けている。 ご飯食べたいなー もう寝たいなー 行きたくないなー これ全部祈りであり願いですね。 それらを、正しくスムーズに、軽やかにしなやかに、叶える方法がある。 些細なことでも大きなことでも、同じ方法を使う。 セルフヒーリング講座詳細は こちら (わたしのHPに飛びます) このことをストーリーズに書くきっかけになったのは、 私の尊敬する一人であるさとうみつろうさんのYoutube動画。 それは こちら 。

異世界体験

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最近のいつもの自分とは違う行動をしてみた日があった。 そうしたら、その場に集まっていた人々は、最近の自分の周囲にいるような人々とは 違うタイプの人々で、 話題の内容も違うし、盛り上がるポイントも違うし、興味の方向性も違うし、 知識のベースも違うし、情報源も違うし、 とにかくいろいろなことが最近の私とは異なっていて、 「ほお~」「ふーーーん」 という感じだった。 生きている世界が違う、というのはこういう感じなんだと、体感できた。 それで。 ただ単に「へえ~違うんだな~」で終わらない自分の心の中に気づいた。 なんだかモヤモヤがその後数時間続いたことで、 「こうであるべき」が自分の中にあることに気づけた。 それはセルフヒーリングで手放せたので、また一皮むけた。 おかげさまって、こういうこと。ありがとう、この体験、この登場人物。 セルフヒーリングができるって、本当に便利! 実は、上記のような体験をしたちょうど数日前に、似たような話を聞いたばかりだった。 私にその話をしてくれた人は、 地域の中である役割の担当になったことで、 自分の日常では出会わないタイプの人々と一緒に活動することとなった。 なにかの話し合いの時も、なにかのイベントの時も、その延長の打ち上げ的な時も、 とにかくあらゆる場面で「違い」を体感した。 というような内容だった。 それを聞いたばかりで、私も同じような体験をすることになった。 自分の中のどこかで、異世界体験してみたい、と思っていたのかもしれないし、 又は、自分の制限をどんどん外していきたい、と思っていたから、 その制限に気づく状況がこのカタチで用意されたのかもしれない。 思い込みとは、自分のなかでつくりあげている思考の枠/壁/制限のこと。 例えば、朝食は食べるべき、とか、男は〇〇であるべき、とか、何歳までに△△、とか。 思い込んでいる状態なので、それが当たり前だと思っていて、 それが思い込みだとか制限だとかは、なかなか気づかない。 他人の話を聞いたりすることが刺激となって、ハッと気づくことも多いと思う。 なので、ありがとう、なのであります。

催眠術をとく

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このところ、少し前のことであっても、 ものすごーーーーーーーく前のことのように感じる。 例えば1ケ月前の出来事を、1年以上前、あるいはもっと前、のように感じる。 以前から私はこの傾向はあったのだけれど、最近特に強い。 私の中には36兆個くらいの細胞たちが生きていて、その細胞たちは3カ月くらいで すべて入れ替わるのだそうだ。 だから3カ月前の私と今の私では全くの別人と言っても良いかもしれない。 数で言ったら36兆個分も違っているのだから。 この「別人に感じる感覚」についても、私は上に書いた年月のことと同じように感じていて、 1年前の自分は、今の自分とは完璧別人だと思うし、 3カ月前も別人だと思う。1カ月前はまあまあ違うかな、くらい。 別人に感じる、という意味は多重人格的ということではなくて、 なんというか、 ステージが違うというか、生きているステージ?場所?空間?次元?が違うように思う。 なんかそんな感じなのであります。 いまこれを書いていて、ふわっと感じたことがあって、 じゃあだからと言って、時間が過ぎるのが常に猛スピードに速いと思っているか、 と言ったら、そうでもない。 例えば先ほど(ふわっと感じたこと、と上記に書いた瞬間)、 時間がものすご~くゆっくり揺らめいている、うごめいている、くらいの感じに 感じた瞬間があった。 宇宙には時間なんてなくて、それはただ人間が地球でつくった概念であって洗脳であって、 「時間は伸び縮みする」というのが真実なんだろうなあ、と思う。 洗脳って、催眠術みたいなものだと思うが、 きっと文明社会に生きる人間はすべて、催眠術にかかった状態で生きているんじゃないか。 かかり具合とかが人によって違うっぽいけど。 私は催眠がとけた状態がどんな自分で、どんな地球になるのか、 見てみたい。

瞬間の次の瞬間

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 過去も未来も無い、あるのは今だけ。 と聞いても意味がうまくつかめない。分かるような分からないようなフワッとした感じ。 私も肌感覚でつかんでいる感じ。 頭(脳)で理解しているか、と言われると、していないような気がする。 ただし、日々、その肌感覚がはっきりしてきている感じはある。 多分それがそのうち、頭でも理解が深まるのではないだろうか? いまこの瞬間が、次の瞬間をつくっている。 いまこの瞬間の私の感情が、次の瞬間の現実をつくりだしている。 いまこの瞬間の私の感情エネルギー(素粒子)は放たれ、 周囲の素粒子にぶつかって、私の元へ跳ね返ってくる。 いまこの瞬間が次の瞬間をつくる。 その連続が「未来」をつくる。 だから、 いまこの瞬間の自分の在り方を変化させれば、 「未来」も変化する。 自動操縦のままなんとなく進めば、いまと同じ。