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ものごとの境界線にあるもの

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 ” ものごとの境界線にあるものっていいですよね。おかずとごはんをまぜると異様においしいし。里山や海辺は表情豊かだし。昼と夜、夜と朝の境目は美しい。蟲の居所も、境界線上です。まぜごはんや海辺のような・・・そんな話を描きたいです。” 漆原友紀 著 「蟲師」3巻の裏表紙より引用 どの巻も表紙の絵の世界観や手触りがとても美しくて、じっと見ている。そこで見つけたのが上記の文章。一度サラッと読んで「ん?」と何かを感じた気がして、また読んだ。 それで思い出したことは自分のこと。 「私っていつも両方に片足つっこんでる感じだなあ」 「私って両方の世界の人たちと交流があるなあ」 「なんか橋渡し役的な位置にいるのかなあ」 というようなことを思ったのが20代前半のころだった気がする。思い出してみると、割と小学生のころから、こんな感じの状況でいることが多かったような。 で、20代のころは「どっちつかずなのかな?」「入り込めてない自分ってどうなんだろう」と、少しネガティブな方面でチラッと考えたこともあった記憶がある。でも、それはチラッと思っただけだったことも覚えている。自分のその状態で特に違和感がないことも知っていたからだと思う。 いまこれを書いていて思い出したが、以前友人がこんなことを言っていた。「私たちって、無所属、だよね」これを聞いて、ほんとそうだしそれがいい、とそのとき思った。 橋渡し的な位置にいる、という表現しか思いつかなかった20代前半のころ。いまは、無所属とか、中立とか中庸とか、そんな言葉も連想する。 で、最初に書いた蟲師の文章を読んだ数日前。”境界線にあるもの” という表現が加わった。 しかも、考えてみると私もその境界線の時間帯の空の様子や空気感が大好きだし、何かと何かを混ぜ合わて生まれる何かが大好き。思えば調香の仕事もそうだわ。 境界線にあるものの、あの何とも言えない、ゆらぎ、ゆらめき、美しさ。 それが大好き。 ということで、私自身も昔からのその自然な状態でいいんだった、と確認した感じだった。 漆原友紀さん、ありがとう。漫画を買ってくれた夫、ありがとう。アマゾンプライムのアニメで見ていた後に、夫が漫画を買って今読み進めているところ。実は夫は昔、漫画を持っていた時期があったが売ってしまい、今回私がアニメを見てはまっていたので、また買い戻す形で買ってくれた。ありがとう。

感覚明晰化

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●頭脳明晰 ずのうめいせき 思考や判断力が曇りなく、はっきりしているさま (weblio辞書より) ●感覚明晰 かんかくめいせき 自己の感覚をはっきり感じ取り、気づけるさま (わたしが考えた) 20年くらい前にある大きなセミナーに参加したとき、その講師の人が言っていた。 「僕は算数もあんまりできないし、漢字も書けないものが多い。 でも僕はいわゆる成功者の部類です。計算は電卓にやってもらえばいい。 僕は僕の得意なことだけに集中してエネルギーを注いでいます。」 みたいな内容だった。 このころはまだChat gptもないし、Google先生も昨今ほど頻繁には使われていなかったと思う。スマホもなかったし。 この講師の人が今も健在で、当時と同じような考えであれば、 自分の不得意なことはAIや、それが得意な他の人たちに益々任せて、 自分の得意なことにエネルギーを集中させているだろうと思う。 ネットで検索したらなんでも出てくる時代。 ただし検索キーワードによってヒットするものは違う。 そして近年はちょっと変わって、 検索エンジンによってはなんでも出てこない時代になった。 検索エンジンの運営会社の方針によって、 検索上位に表示するものしないもの、をAIによってプログラムしている。 運営してるのは企業なわけだし、 株主の意向や資金提供してくれる人たちの意向が反映されるのは当然なんだろう。 とはいえ、20年前と比べたら膨大な量の知識を得ることができるようになった。 簡単に、表面上は無料で。 (検索エンジンはこっちの情報を集めてるので敢えて表面上と言う) 情報がありすぎて 「一体どれが本当か分からない」「なにを信じたらいいのかわからない」 みたいなことになってる人も多いと感じる。 そうなってくると 「NHKで言ってることなら間違いないでしょ」「政治家が言ってた」 「芸能人の〇〇が言ってた」「TVで言ってた」「Twitterで話題になってた」 「私の尊敬する〇〇さんが言ってた」 というように、 自分的に「すごい人」だと信じている「誰かや何か」が言ってたものを 『 正 』とする人もいると思う。 私はどうしてるかというと、自分の感覚を頼っている。 誰がなにを言っていようが、街中がある方向の雰囲気になっていようが、 検索上位に一つの種類のことばかりが表示されようが 「なんか変な感じがするな~」「

自分軸のある人を演じてみる実験

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 ”自分を持ってる人” とか ”自分がちゃんとある人” のように言われる人ってどんな人だろう。最近の言葉で言うと ”自分軸 ” のある人。 10代のころの私は ”自分の意見が言える人 ” が、そういう人のことだと思っていた。 自分の意見を言えるということは、なにかについて「私はそれについてこう思う、こう考える」と考えることができる人のことだ、と思っていたし、 その ”なにか” は、 例えば社会問題とか環境問題とか、日常にある誰かと誰かの問題とか、クラスの中で議題になることとか、いわゆる何か特定の『問題とされること』についてだ、と考えていた節があったように思う。 そして、いまの私がどう考えているかというと、10代のころとは少し変わった。広くなったというか、深くなった。 自分を持っている人(自分軸のある人)というのは、 『問題とされること』について私はどう考えるか(=自分の意見)があることもそうだけれど、もっと日々の日常の中で、 「私はこれ好き、これ嫌い」「私はこれがしたい、これはしたくない」「私は行きたい、行きたくない」 というような単にしたいのかしたくないのか、という自分の自然な欲求希望を、自分の中に持っている人が  ”自分を持っている人(自分軸のある人)”  なんじゃないかと思っている。 しかも、常にそういう欲求希望があることに、自分自身ではっきり気が付くことができていて、もっと言うと、その欲求希望に従って実際動くことができている人。 多くの人が経験ありそうなことで例えると 「あ、12時だからご飯食べなくちゃ」と思って食べる。又は、12時なのを知っていても、周りの人が食べていても「私はいまお腹減ってないから、まだ食べなくていいや」と食べるのはやめる。前者は、自分の今の状態がどうかな?と考えず又は無視して、時間や周囲の都合の方へ自分を合わせている。後者は、周囲はこうだけれど自分はどうかな?と考えて、自分の都合の方へ合わせている。 これだけ聞くと、そんな自分勝手にしていたら周りに迷惑が…、と思うかもしれない。 この例の後者の人は、我慢していない人。周囲よりも自分の方へ合わせている人。こういう人は、身体の状態も良いだろうし、ストレスも少ないだろう。ってことは、おそらく良い気分で過ごしている時が多いだろう。そうすると、自然とやさしくなれたり、寛容になれたり、細かいことにい

日常がパラダイス = 人生がパラダイス

日常の繰り返し(積み重ね)が人生 生活の繰り返し(積み重ね)が人生 だと私は思っている。 なので「人生よくしたい」「たのしい人生にしたい」「あの人の生き方あこがれる」 とか思うのであれば、日常生活をよくすること、日常生活をたのしくすること、 日常生活をパラダイスにすること。 「日常にうんざり」という気持ちを持ったままで、『楽しい』を求めて 旅行をしたり、お酒を飲んだり、環境を変えたり、人間関係を変えたりすると 「これをしている ”時だけ” は楽しい」 「これをしている ”時だけ” は日常を忘れられる」 という『一時的な快楽』になる。 そこから日常へ戻ったら、また以前と同じ日々。 例えば楽園的なところへ引っ越ししたとしても、そこの環境に慣れてきて そこがまた日常になれば、以前の自分がムクムクと出てくる。 そしてなぜかまた以前と似たような問題を抱えるようになる。 なぜか?この理由は明らか。 まずエネルギー的観点から言うと 自分そのものが何も変わっていないので、その自分の波動(周波数)は 似たような波動(周波数)のものと共振する。 引き寄せ始める、周囲に集め始める。類は友を呼ぶ、の法則と同じ。 そして脳の仕組みから言うと、 自分の潜在意識(無意識領域)のなかに溜め込んでいるものを整理していないので、 また以前の自分と同じような思考パターン、行動パターン、情緒の揺れパターンになる。 人は潜在意識(無意識領域)にストックしている膨大なデータを元にして、 見る・聞く・考える・行動する、という脳の仕組みになっているから。 『不満な今』『こうしたいけど叶ってない今』を抱えている人が、 環境を変えること、気分転換のための何かしらをすること、人間関係を変えること、 などはとっても大切なことだと思う。 変化を求めるときは私もこれらをする。 ここで間違えちゃいけないのが こういうこと ”も ” する ということ。 外側のことだけ変えればOK、ではない。 「一時的な満足でいい」という人は、外側のことだけ変えればいいと思う。 もしくは「悩みをかかえた状態の方が好き」という人も、 やはり外側のことだけ変えればいいんじゃないかと思う。 これも好みだから。 話を戻すと、 外側のこと ”も” 変えながら、内側のこと ”も ” 変える。 内側のこと=自分の中身=顕在意識と潜在意識とエネルギー領域 そうす

願うということ

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「わたしもソロモンみたいに空を飛べたらいいなあ」 なぜ?なぜ空を飛びたいの? 「いつも地面の上を歩かなきゃいけないなんて面白くないよお。すごくゆっくりだし。いろいろな所へ行くのにもすごく時間がかかる。それに見えるものも限られてる。地面の上にあるものだけしか見えなくて、つまらない」 あのねえ、サラ、君は僕の質問にちゃんと答えていないみたいだね。 「あら、答えたわよソロモン。わたしが言ったのは、空を飛びたい理由は・・・」 面白くない地面の上を歩き回るのが好きじゃないから、だろう?あのね、サラ、君は『なぜ君が空を飛びたいのか』を話したのではないんだ。君が僕に話してくれたのは『空を飛べないことを君が嫌だと思う理由は何なのか』ということだ。 「どこが違うの?」 ああ、サラ、大きな違いだ。もう一度、答えなおしてごらん。 引用 ”サラとソロモン”   エスター&ジェリー・ヒックス著 この部分を読んで、わたしは心が熱くなった。 なにかを願うとき望むとき、そうする/そうなると決めるとき、この部分はとっても大切なポイントになると思うから。 心がなんだか熱くなったということは、もしかして私も分かっていたつもりだったりとか、 できていない時があったりするのかもしれない。 なにかを願いながら、同時に、それが叶わない場合どういったことがあるか、 ということにフォーカスしていたら(それについて話したり考えたり「うわーやだ」と感じていたりしていたら)、 そっちが叶ってしまい、願っていた方は永遠に叶わない。 それが宇宙の仕組みだし、素粒子や波動の仕組みだから。 長く、強く、感情を伴って、考えたり思っていたり想像していたりしていたことが叶う。 それが自分にとって、都合が悪いことであろうが良いことであろうが、関係ない。 宇宙はシンプル。 ソロモンは上に引用したやり取りの後、もう少し会話があって、その後こう言う。 そうだ、サラ、その調子で、なぜ君が空を飛びたいのかを話してごらん。それはどんな感じがする?どういう風に感じる?それがどんな感じか僕にも感じられるように話してみてごらん。空を飛ぶことはどんな感じがする?地面の上にいることがどんな感じかとか、空を飛べないことがどういうことかについて話すのではなくて、空を飛ぶことがどんな感じがするかを、僕に話してほしいんだ。 それを聞いてサラは、もし自分が空を飛んだら

香りは装身具にもなり戦略的にも使える

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下部の ”なぜ香りなのか?” は、先日、私のホームページの調香セッションのページに補足で追記した内容。 この投稿の前いくつかにわたって書いた脳とか感情などについての 投稿にも関係しているので、 両方読んだ方はつながりが感じられると思います。 潜在意識、思考、感情、メンタルなどに、とてもとても関りがあるのです。 ーーーーー なぜ香りなのか? 味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚。このなかで嗅覚はとてもユニークな動きをします。 嗅覚以外の感覚は、それを感じると、 まずは理性・思考・分析・言語などを司る左脳へ信号が伝わります。 しかし嗅覚だけは左脳を通らず、 本能・感情・記憶・閃きなどの右脳エリアへ電気信号が直行します。 思考でアレコレ考え始める前に、潜在意識や本当の自分へ香りの信号が届くということです。 このページの上の方に「香りでできることの例」を載せていますが、マインドセットも気持ちの切替も自分軸の強化も、こういった理由の元、香りのサポートによって深い部分でそれができるわけです。 アレコレ考えず頑張らずシンプルに、ただ単に香りを嗅ぐだけでそうなる。 体の仕組みにのっかるだけなのでとても楽で簡単です。 しかもその香りは植物の香りで、しかも自分用に調合された香りであったら、 より一層「自分に届く」そして「自分と響き合う」と、私は感じています。 ※植物の香りが良くて化学合成の香りは悪い、とは一概には言えません。 使い方や使う量、個人差など様々なことのバランスで、危険性や合う合わないが変化します。 ーーーーー 服、靴、鞄、ジュエリー、お化粧、などと同等の感覚で、装身具のひとつとして香りを使うもよし。または上記の仕組みから、自分の脳に対して意図的、戦略的に香りを使うもよし。 どちらにしても、気分を変えてくれるもの、であることは間違いありません。

右脳と左脳

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感覚や芸術は右脳、考えたり計算は左脳、と言う。 右脳人間、感覚人間、完璧左脳の人、とかいう言葉も聞いたことがある。 私はインスタの点描曼荼羅アカウントの方で以下のようなことを投稿することが時折あります。 「右脳も左脳も両方を使っていくんですよ」 「直感を使って描くけれど、どうやったらどんな点が描けるか左脳を使って考えて、手を動かして実験して、どうなるか観察するんですよ」 右脳も左脳も、それぞれ役割が違うわけなので、使い分けていけば良い。 現代の特に日本では、左脳を活躍させている人が多いと思う。 活躍させすぎて左脳が過労死するんじゃないか、くらいに使い過ぎていると感じています。 感覚派の人は、ちょっとバカにされる感じが強い時代もあったかもしれない。(今もあるかもしれない) 以下の流れで、私たちの体内(体外も?)で情報の受け渡しが行われているようです。 エネルギー的なものを心(心臓のあたり)で受け取る → それを右脳で感覚的に感じる  → その”感じ”を左脳へ渡す  → 左脳がそれに理由付けしたり分析したり判断したりする → なんらかの言動や行動をする(または行動しないと決める) 右脳も左脳もどっちも必要だし、どっちかだけを使う、使わない、は 無理があるんだなと思います。 時と場合に応じてどっちも使う。 本来は、特に意図せずとも自然に両方を使えるのが通常モードだけれど、 「こうすべき」「こうした方が合理的」「前はこうだった」「普通はこうでしょ」 などで自分を固めていると、せっかく右脳で感じたものを無視して蓋をして、 いつでも左脳優先になる。 左脳優先はみんな相当やってきているので、たまには右脳優先にしてみたらどうなるか、 試してみてもいいんじゃないかなと思う。 ものは試し。実験的に、ゲーム感覚で。 何度かやってみて自分的にイイ感じであれば続けたらいいし、 あんまりだなーという感じであればやめたらいいし、時と場合でやったりやらなかったりでもいい。 浅見帆帆子さんがこんなようなことをおっしゃっていた。 「なにかを決める時、感覚だけで決めていません。割と調べます。そして調べた内容に対して、自分がどう感じるかを見ます。そして最終的に、良いと感じる方や違和感のない方を選びます。」 細かい言葉は違うかもしれないけれど、大まかにこんな感じのことだった。 感覚の右脳も、分析判断の左脳も

私の個展のお知らせ(2024年2月静岡県浜松市)

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  ∞ 個展のお知らせ ∞ 私の通うカフェで展示をさせて頂くことになりました。 在イタリア時代の一時帰国中、おいしいエスプレッソが恋しくなった時にこのカフェに助けられました。最近の私のお気に入り組み合わせは、カウンター上の焼菓子 + アメリカーノです。 飲み物で両手を温めながら、曼荼羅たちをぼんやり眺める時をお楽しみください ☕ ️ 🏵 ️ [会期] 2024 年 2 月 2 日 ( 金 ) 〜 2 月 27 日 ( 火 ) [営業日時]基本は 11 時〜 20 時、水曜は休み 又は 夕方閉店 [場所]  Instagram @westgoatcoffee  West Goat Coffee  静岡県浜松市中央区千歳町 104-2 浜松駅から徒歩5分 ◎ 入店の際はお飲物をご注文ください ◎ 作品はすべて原画の一点ものです ◎ すべて販売可能です ◎ 今回の個展限定価格にする作品もあります ◎ 作品購入は現金のみ受け付けます ◎ 購入当日にお持ち帰りいただけます ∞ はじめましての方へ ∞ 私の描く曼荼羅画は宗教画とは異なります。 宙を奏でる点描曼荼羅画 ( そらをかなでるてんびょうまんだらが ) と言い、事前にデザインを考えることなく、直感的に対称的に、すべてを点で描く曼荼羅画です。 この曼荼羅画は、まっくらな宇宙のような黒い紙の上に一粒の点を置くところから始まり、やはり一粒の点を最後に置いて終わります。それぞれの一粒は独立した点であると同時に、すべてに繋がる点でもあります。曼荼羅は平面でありながら球体でもあり、全方位への無限の広がりを持ちます。 描き手である者が自身の思考を入れずに描くことで、できあがった曼荼羅は、個人の狭い枠に囚われない世界を持つのだろうと思います。 瀬戸里絵 ____ 体験会・講座は、ご希望日時を相談いただき互いの都合を合わせて開催しています。講座は対面もオンラインも可能です。 点描曼荼羅画の販売、オーダー制作もしています。作品購入はオンラインショップ又は dm からどうぞ。オーダー制作承っています (1 万円〜 ) 。 詳しい内容は こちら をご覧ください。   ——

感情ってなんなの?

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感情 というものには、どんなものがありますか?はい、皆さんどんどん書き出してみて。 と言われたら、すごくたくさんワードが出てくると思うけれどどうでしょう。 うれしい、たのしい、おもしろい、イライラ、モヤモヤ、さみしい、ざいあくかん、 きもちいい、ふわふわする、ほんわかする、ずしっとする、ムッとする、まんぞく、 すき、きらい、なんかいや、なんかいい、等々。 じゃあ、この感情たち、それぞれどんな姿をしてますか? と言われても、見えないし物質ではないので姿はない。 姿はないけれども、絶対に存在している。自分の中から出てくる。明らかに「ある」。 感情は、エネルギーです。 電気とか電波と一緒。見えない姿形はない、けれど絶対にある。あるからネットが繋がるし、電化製品が使える。 電気エネルギー。 それで、感情。 この出てきたやつを、世の中では  ”良い感情” と ”悪い感情” 、”ポジティブ” ”ネガティブ” 、”軽い” ”重い” 、 などと分けたりするわけです。 本当は良いも悪いもないのですが、ここではその話は置いておき、 どういう時に感情が出てくるのか?を書いてみます。 感情が出現する前には、必ず、なにかを見る/聞く/体験する、などがありますよね。 例えば 「わあ!それいい!!」という嬉しい系の感情出現の前には、 「ねえ、今度この温泉宿に泊まってみようと思うんだけどどう?」 という提案があったり。 「うっわー、なんなのソレ」というテンション下がる系の感情出現の前には、 自分が全然好きではない出来事を見たり、発言を聞いたり。 でも、どんなに自分が良いと思う提案内容でも、嫌悪感を感じる出来事でも、 人によっては全然良いと思わなかったり、むしろ嫌いだったり、無反応だったりします。 何故、人によって違うのかというと、 判断基準が違うから。 これは良い、これはダメ、ここまでならOK、普通こうでしょ、当たり前じゃん などの判断です。 みんな誰でも、その人の中での良い悪いの線引きだったり、当たり前の枠が決まっている。 その線を越えてくる人や出来事と出会うと、 「ちょっと!!なんなのアレ!?ありえなくない?」とカチンときたりするわけです。 「ありえなくない?」という言葉を聞いていた隣の人は、 「え?別にいいんじゃないの?」という反応の場合もある。 ということで、 感情が発動する前には、必ず、

【補足】重い方へ引っ張られることの何がだめなのか?

 ひとつ前の投稿の補足です。質問が飛んできました。 「気分や感情が重い方へ引っ張られると、なにがだめなのか?」 まずは、 良いとか悪いとかはないです。 重い方が好きだったり、そこに浸りたい気分の時ならばそうしたらいいし、 軽い方が好きな人はそうしたらいい。 単なる好みです。 で、 私は軽い方が好きなので、自分も軽くいたいし、自分の周囲は軽い人々でいてほしい。 なので、重さを取る方法、軽さをキープする方法などを教えているわけです。 突然ですが、私の活動の目的は『地球平和』です。 私の想う地球平和とは、 個人個人が精神的にも体的にも自由で、それぞれが好きなことをしていて、 それぞれが自分の満足感の中に生きていて、それぞれ尊重しあっていて、 それぞれ感謝の気持ちを持って、地球と共に生きている 言葉で簡単に言うとこんな感じ。 それで、 この地球平和の状態になるためには ”類は友を呼ぶ” の法則を大活用することで、 私一人からでも、そこのあなた一人からでも、可能なのです。 波動とか量子力学のことを知っている人ならば(学者レベルでなくて表面的に知っている感じでも全然OK) 聞いたことがあると思いますが、 類は友を呼ぶ、とか、似た者同士が集まる、とか、一緒にいると顔が似てくる、とか、共振とか共鳴とか、 そういったことは、なぜそうなるのかを説明できるのです。 私一人が軽い波動(エネルギーとか気とか周波数とか)になると、どうなるか? 大雑把に言うと、 私が軽い波動を発していると、類友の法則によって、 私と同じような波動の人・物・出来事が私の周りに集まってくる/起きてくる。 私一人が変化したら、私の周りも似たようなエネルギーになる。 誰かがものすごく楽しそうに大笑いしていると、 内容を知らなくてもこっちもつられて笑えてきたり、楽しくなったりする。 それと同じことです。 自分もそういう方が好きだな~、という人が講座を受講してくれて、 その人が軽い波動に変化していくと、 その人の周囲でも上に書いたことと同じようなことが起きてくる。 で、その人の周囲環境がそうなっていくので、その人自身はますます居心地がよくなって、 ますます軽い波動になっていく。 そして、その人の周囲の誰かも誰かもその波動になっていくので、 そのまた周囲もそうなっていく。 こういった連鎖が起きてくるので、 日本各地、地球のい