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なるべくStay Local

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この5年くらいで私の思考は次のような感じになっています。 「なるべく地元の個人商店からお買い物したいな」 「なるべく地元にお金が回るようにしたいな」 なるべく、で良いのです。完璧は目指さない、けれども基本はこの↑感じで生活がしたい。 そんな風に生活する人たちが増えて、地元内で様々なものが循環するようになっていったら、 結局はとっても豊かな暮らしになるのではないか。豊か、の意味は、お金だけでなく、 安心感が増すとか、生きる力が増すとか、繋がりが強くなる、とか。 私はなんでもかんでも”繋がろう”みたいなのは苦手で、必要なときに必要な人がそれぞれ、的な 意味です。必要なのに孤立したまま、ということにならないような繋がり。 そのような地元が各地域にできていって、また地元同士で必要なときは、協力したり 助けたり、ができる。 現代の日本のように、「もっともっと」「拡大拡大」「グローバル」としなくても 十分に豊かな暮らしができるのではないかと思っています。   昨日は私の地元の公園で 『LOCAL COFFEE FES』 というイベントが開かれ 行ってきました。地元でコーヒー業を営む個人商店が公園の広場に出店し、来場者は いろいろなコーヒー店の味を楽しむことができるというイベント。 もちろんコーヒー豆は外国産なわけですが、それぞれの店主さんが情熱と愛をもって 扱っている豆(その生産者さんたちとの繋がりだったり)。 そこで私はちょっとおもしろいなと感じる感覚を得ました。 私は夫と二人で出かけて、元々混雑が苦手なので、終了時間30分程度前に行きました。 もう売り切れているお店もあった中から、せっかくなので、知らないお店のコーヒーを選びました。私が感覚で選んだ二店。 そしたらそれぞれ全然違うタイプのコーヒーで、 一つは香りも味も下に感じる刺激も「あ~まろやかでなんだかほっこり美味しいね」 もう一つは「都会的な感じでキリッとしているね、うん美味しい」 このような感じだった。印象は違うけれど、どちらも美味しかったです。 そのあと家に帰ってきて思ったのですが、 あの公園で足の裏に土を感じ、周りには木々があり、 人々がMyマグカップを持ちながらゆっくり歩き回る、曇り空の寒い日曜の午後、 その雰囲気の中で飲むコーヒーは「まろやかでなんだかほっこり」の方が とっても美味しく感じました。きっとあの時

犬猫インコ、そして鹿

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私は犬(特に大型犬)と猫とインコ(特にセキセイインコ)がとても好きで、 彼らと一緒に暮らす生活もいいなあ、と思っています。 大型犬とインコは実際に長い間一緒に暮らしていました。インターネットで見る動物動画も、犬猫インコのものが多いです。 では鹿は。 このポストカードはリスボンのどこかのお店で出会い買ったもの。 例えば犬猫インコが好きだからと言っても、ポストカードを買うことはありません。 でもなぜか鹿は、ときどきふっと惹かれる絵に出会って、なんだかその世界に魅せられるのです。 しかもそれは、必ず金色の鹿で、木や植物に囲まれた中にいる設定の絵。 なぜだかは不明です。 本物の鹿はそんなに惹かれないし、普段出会うこともないし、鹿の動画も特別見たいとは思わない。 私の初めての金色の鹿のいる世界の絵は、こちらでした。 市の広報誌のページの切り抜きです。たまたま見かけて、ものすごく心惹かれ、切り取って大切に何年も持っています。 誰の絵なのかも知らずにいましたが、何年もたってから、秋野不矩さんという方の絵だと 知りました。 「きんいろのしか」というタイトルの絵本の絵だそうです。

IcelandのZINEと思考のこと

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Iceland、そのまま直訳すれば、氷の土地。 ある冬に旅したこの場所をZINEにしました。 写真と短文とちょっとしたコラム。 場所の説明とか旅の仕方のHOW TO本ではなく、 心で感じるものにしたかった。 ZINEのタイトルは ”感 magazine" です。 人は一日に60,000回の思考(考える)をし 〈米国・心理学の研究だそう〉、 一日にする決断は35,000回 〈英国・ケンブリッジ大学 精神医学科 Barbara Sahakian教授の研究〉 。 じゃあ、心で感じる方はどうなんだろう。 哲学の話にもなってしまうのでは、と思いますが。 一人ぼんやり時を過ごすときに、パラパラとめくって、 何かを感じて、その感じた自分をまた眺めて、 そんな本になれたらいいな、と思っています。 とは言え、それは作った私側のアイデアというか希望であって、 実際に手に取ってくださる方がどのように扱ったり感じたり考えたり そこから広がっていくものがどんなものであるか、 それは自由で無限なのだろうとも思っています。 感 magazine  - Iceland -  BASEのショップ 、 読書空間 ひつじ日和 さん、 で販売しています。 蕎麦道楽 百古里庵 さんでは、美味しいお蕎麦をいただきながら読むことができます。 限界集落 天空の館 さんでは、広がる空を眺めながら読むことができます。 ついでの話ですが。 一日に60,000回も考えていて、 そのうちの95%は昨日と同じパターンで考えているのだそうです。 これは人間の恒常性維持機能 = 現状を維持しようとする機能。 昨日のパターンで考えていたら死ななかった。 今日も同じパターンで考えれば生きていられる。 これって生き物としての本能。 しかし人生を変えたい、と思っているタイミングの人にとっては、 これは厄介な一面だと思う。 だって、昨日と同じパターンで考えているから、昨日と同じ今日があるわけです。 明日も明後日も、同じことが続く。 この、現状を維持しようとする機能については、 一年くらい前に 神王TVのゲンさんシリーズ で知りました。 じゃあどうすれば変化できるのか、についても学びました。 とても興味深い内容です。

土と生きる

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私の住む浜松市という場所は、風がとても強く吹く場所。 強風、というより、暴風、といった方がしっくりくる程です。 暴風は、毎日、一日中、吹き荒れている。 特に冬がひどい、はずなのですが、 5年ぶりにこの街に戻ってきて冬~春と過ごしていると、 もう春なのに、つ よ い 。。。。 私の記憶違いなのか、しばらく風のない街に住んでいたせいで強く感じるのか、 はたまた気候が変わったのか。 この街から東へ30kmほど離れた掛川市という場所へ行くと 穏やかさを感じるようになります。 浜松市よりも風が弱い気がするし、山(小高い丘のような山)が近くに感じられて 土や木々の気配がより存在する。 心なしか太陽の光も、ポカポカと暖かく感じます。 完全気のせい、な部分もあるかもしれないが、気候の違いは確かにあります。 先日この掛川市にある パン屋さん (とっても好きでした)へ寄った帰り道、 大通りから一本入った道のところに「里山だなー」と感じる風景があり 車を停めて外へ出て、しばらくぼんやり佇みました。 緑の葉をたくさんつけた桜の木が数本あり、 風で揺れる葉っぱの音が、サワサワ―と心地よく聞こえていました。 「あれ?風がけっこうあるなあ」 そう、風はまあまあ吹いていました。浜松市のように、常に。 しかし感じ方が全然違う。 山と土が風を吸収してくれている そう感じました。 私は浜松市のまあまあ中心地のあたりに住んでいて、 地面のほとんどはアスファルトで固められ、空き地はなく、木ではない建物が立ち並び 一軒家の敷地にもあまり土はない、 そんな場所に住んでいます。 土のない場所で吹く風は、どこかにぶつかり跳ね返り攻撃的な風となる。 山と土がある場所は、この攻撃的な感じがまったくない。 実際はどうなのかは分からないけれど、 ぼんやり里山に佇んでみた時間に思ったことでした。 山の役割とは、的な話をなにかで読んだことがありました。 そこに風のことが書かれていたか記憶が怪しいですが、 全ては繋がっていそうなので、風と山・土、の関係性もありそうだなー パン屋さん 、おすすめです。

"いま” という時間はあるのかないのか

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「いま」と言った瞬間、思った瞬間、感じた瞬間、 その「いま」は通り過ぎて過去のものになっている。 一体「いま」って、いつのことだろうか? そもそも「いま」なんて存在するのかな? と最近考えています。 このところ練習している瞑想でも「いまに在ること」は大切なのだそうだし、 わたしの描いている曼荼羅画でも「いまここ」を大切にしている。 曼荼羅画のレッスンをするときも、口をすっぱくして、 「先のことを考えず、いま目の前の点だけを見てくださいね」 とか、 「ここをこうしたら、この後こうなって・・・と考えず、いま見えた個所を信じて」 などと受講生さんに伝えています。 そもそも時間が線のように後ろへ後ろへ流れているのか、 パラレルワールドのように散らばっているような感じなのか、 どうなんでしょう。 「”いま”とは何か」みたいなことを考え出すと、頭の中のぐるぐるが止まらなくなるので 瞑想中や曼荼羅画を描いているときは、それはとりあえず横に置いておかなくては。 何かの本で読んだ文章。とても美しいな、と感じました。 ここから感じられるその世界が美しい。          植物が何故こんなにも美しいかわかる?         彼らは、ただそこに在る、だから輝いているの。 10月後半頃のミラノは黄金色に染まります

瞬間を感じる力

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前回のブログは、とてもたくさんの方に読んでいただけたようで嬉しいです。 読んでくださたった皆様、ありがとうございました。 その辺を歩いていて感じたこと。 「なんかわたし、何気ない瞬間を大切にするようになったかも??」と思いました。 昔から割と、なんでもないことに幸せを感じられるタイプではあったけれど、 それが更にパワーアップしているような気がしました。 この8カ月で。 そう、コロちゃん騒動のおかげです。 目の前の風景とか、食べるもの、目の前にいる誰か、物、などなど全ては 明日は同じように目の前に存在しているか分からない、 ということが身に染みて分かった8カ月だったからかもしれません。 そもそも、人間に生まれたからには、全員100%の致死率で死ぬわけなので、 あと5年後か、30年後か、5分後か、明日か、いつかは誰にも分からないけれども いまこの瞬間と同じトキを今後も過ごせるかどうかは、まったく不確定。 ということは頭では理解していたつもりだけれど、 この8カ月でその理解度が更に上がった、とでもいうのでしょうか。 「この幸せな瞬間を味わおう」とニンマリしながら歩いた時間でした。 この感覚を忘れているときもあるだろうけれど、なるべく、ね。 コロちゃん騒動、わたしをそんな風にしてくれて どうもありがとう。 これってとっても大切な感覚だと思う! 皆様はどうかな?? 写真を見返して気づいたけれどイタリア国旗柄の道路でした(日本だよ)

なんで??

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わたしは「なんで?」と疑問をもつタイプだと思います。 例えば学生時代の記憶、一部抜粋してみます。 小学生・・・風景写生で黒い水の流れる川をそのまま描いた。先生「川っていうのは青でしょ」。私の心の中「(あの川黒いよ。なのになんで青?)」。 中学生・・・私の心の中「(なんで髪を結うゴムの色が決まってるの?なんで耳より高い位置で髪を結ったらいけないの?なんで一年先輩なだけでそんなに威張るの?)」。 高校生・・・私の発言「なぜ傘の色は紺か黒でなければいけないのですか?なぜ真冬の寒い時期に制服の上にコートを着てはいけないのですか?」 。先生「変な質問をする奴がいる(怒)」。私の心の中「(え??ただの疑問なのになんで怒るの?なんで答えてくれないの?)」。 その他にも学生時代は、様々なことに対して山ほどの「?」がありました。それ以上の追求は許されなかったり、自分もきちんと言えなかったりで、分からずじまいのことが多かったです。 この世には大人の事情的なものがある、ということが徐々に分かり始めると、今度は、「じゃあ一体その事情とやらができている背景は?」と考え始める。 〇〇である、としておいた方が都合の良い人たちがいる、とか、それで儲かる人たちがいる、とか、その方が管理する手間が省けて楽、とか、単に多数決とか、昔から常識とされているから、学会ではそれが通説、とか。 「なんで??」から始まって、どんどん考えたり調べたりしていくと、この世の仕組み的なところに辿り着いたり、その中は見えなくてもいつも同じ扉の前に辿り着くことが分かったり。 又はどこにも辿り着けず、そのままそのことは忘れていたり。 ぜんぜん関係のなさそうな複数の物事が、実は奥の方でつながっていたことが何かをキーに分かったり。 今はインターネットがあるので、多くのことが調べられます。なんで?の答えやヒントがインターネットの中にあることも多い。 情報量が多い反面、どういった立場の人がそれを載せているのか注意する必要があるし、検索上位に表示される情報がインターネット側で振り分けられている言論統制的な状態があることも承知しておく必要がある。(場合によっては本の方が知りたい情報が調べられる) なにを検索ワードにするか、どこからどこへ繋げるか、なにを信じるか。 結局は自分だなー、と思うのです。 因みに、宇宙人はいてもおかしくないでしょ、と

わびさび

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今日、近所にあるお茶室へ初めて伺いました。 普段着の洋服のまま、椅子に座って気軽にお茶とお菓子を楽しめる場所。 とは言え、お茶を出してくださるのはその道のプロの先生方です。 季節にピッタリの和装が、とても素敵でした。 そして、私はお茶のお作法など全く知らないので、教えていただきながら楽しみました。 たまたまお客様が私一人だったので、ゆったりといろいろなお話をしたのですが、 そののなかで、なるほどな~、と思ったこと。 「千利休は豪華なもの(質の良い本物という意味で)を知ったうえで わびさび、と言っているんですよ。」 なにごともそうですよね、という話になりました。 ピンもキリも知ったうえで、自分に必要なものを引いたり足したり、 丁度よい、心地よいところを探す、というか。 何かの世界を深く経験したり勉強し続けている方のお話は、 とても興味深いです。 お話の合間に、大きな開き戸から見えるお庭を静かに眺めました。 水の流れる音、風で揺れる木々、肌を通りぬける空気、いろいろな匂い、 頭の中がシーンと静まりかえり、浄化されるような数秒がありました。 わび・さび ≪侘 (び)・寂(び)≫ は、日本の美意識の一つ。 一般的に陰性、質素で静かなものを基調とする。本来は詫(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い。人の世の儚さ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている。 (Wikipediaより) ↑↑ この後に詫・寂それぞれの意味の説明が、なが~~~くされていました。 お煎茶の道具たち

宇宙を見る窓

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私はいま椅子に座ってPCの前にいるけれど、実は地球外のどこかから私を見たら、私は時速1440kmという音速以上のものすごい速さで動いているらしい。 ということを、いま読んでいる本の中から学びました。(もしかしたら義務教育課程で習っているのかもしれないけれど、全然頭には残っていない) 今朝、公園の木陰のベンチに座ってその部分を読んでいて、目の前には空が見えていたのだけれど、「もしもあの空のところに窓がついていて、宇宙空間をその窓越しに見られたら、自分が超高速で動いていることが分かるのかも」と思ったり。 そう思ったのも、本の中に     ”もし列車に窓がなければ、その中の人は列車が動いているのか止まっているのかさえわからない”   と書かれていたので。 ベンチに座ってる自分が音速以上で動いているのを想像すると、すごく面白いですよね。 速すぎ。 本は  14歳のための宇宙授業 ~相対論と量子論のはなし~ 佐治晴夫さん著

アイデアが出るとき

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今日は午前中に、近所の公園へ行ってきました。 この公園は木がたくさん植えられていて、とても気持ちが良いのです。 以前、アイデアノートを持って行き、木に囲まれた場所に座って色々考え事をしたとき、 とてもはかどったことがありました。 今日もふと、ノートを持って行ってみよう、と思い立って持参しました。 ベンチに座る前に少しお散歩。 公園内には散歩道があって、ベンチのある場所までのルートはいくつかあります。 気の向くままに歩きました。 風の強い日で、木々が揺れる揺れる。揺れるおかげで、地上へ差し込む光も揺れる。 光が遊んでいるようで、とても美しい瞬間を何度も見ました。 見た、というより、体感した、という方がしっくりくるかも。 そんな感動の後、ベンチに座り考え事を。 思いつくままにメモしていったら「出た!」と思うアイデアが出てきました。 これは突破口的なアイデアなので、ここから広げて深めていこうと。 自然を感じながら、なのか、十分感じた後に、なのか、 私は集中力が増したり、良いアイデアが出たりするタイプかなと思います。 因みに、散歩中はその考え事についてはスッカリ忘れていて、 ただ「きれいだなあ~」と観察したりしながら歩いているだけです。 思いつくことを何でも書いているノート、いまのものが書き終えたら 次はどんなノートにしようかな。