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9月, 2023の投稿を表示しています

ネットワークビジネス

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私はネットワークビジネス(MLM)という仕組みに対しての悪い印象は持っていない。 むしろ、 ネットワーク系の製品は質の高いものが流通していることが多い、 という印象を持っている。 私自身もネットワークの会社の製品をいくつか愛用しているし、 なかには20年くらい愛用しているものもある。 私と同じようなタイプの人もたくさんいると思うし、 ネットワークと聞いた瞬間に壁をつくるタイプの人もたくさんいるように思う。 壁を作る系の人の中には、ネットワークビジネスとねずみ講と悪徳商法などを 頭のなかでごちゃまぜにしているタイプもいるように思う。 そういう私でもネットワークなら何でも良いとは全く思っていない。 ゼロか100か、白か黒か、ではなく、様々な側面があるから。 その会社の質(理念、仕組みなど)、製品の質、 その製品を仕事として広めている人の質、 などによって、印象は大きく変わるし、使いたいかどうかも変わるし、 長く愛用するかどうかも変わる。 いくら質が良くても、その時の自分に合うかどうか、欲しいと思うかどうか、は、 また別の話だし。 ネットワークの製品は口コミで伝わって広がっていくものなので、 たまたま自分が触れ合った人によって、大きく印象が変わると思う。 私と縁があったものは、変な人はいなかったし、 買い込みをしなくちゃいけないような仕組みの会社もなかった。 (買い込みしている人は見たことがある。家の中がすごいことになっていてびっくりした。私は関わったことのない会社。) 例えば、自動車。 運転する人の質によっては殺人を起こすことも、物損を起こすことも可能。 自動車自体の質によっては、運転手の腕がよくても問題が起こる。 自動車メーカーの質によっては、コストを優先するあまり安全性に疑問が残ったり、 勤務環境が劣悪であったりする。 自動車=殺人兵器 にもなりえるし、 自動車=徒歩ではいけないいろんなところへ連れて行ってくれる有難い存在 にもなりえる。 ネットワークビジネスだって同じ話。 使い方次第、選び方次第、人次第。 なぜこのブログを書くことになったかというと、以下。 ある製品を一緒に伝える人を探しているから話を聞いて欲しい、とインスタdmが届いた。 知らない人だったが、きちんと自己紹介があったことと、なぜ私になのか、 自分はなぜそれをしているのか、などを読み、話を聞いてみる

ともだち100人の歌

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 「一年生になったら」 作詞:まどみちお 作曲:山本直純 ともだち100人できるかな? という歌。初めて聴いたのがいつだったのか全く覚えていないけれど、 幼稚園か小学校低学年の頃なんだと思う。 少し前に、頭の中に「ともだちの人数」についてのいろいろが やけに巡っていたことがあって、この歌を思い出した。 今の私が思うことは、友達がたくさんいなくたっていいじゃん、という考え。 そもそも友達って何だろう、と言う話になっちゃうんだけれど。 どこからが友達で、知人で、仲間で、なんだろう。 まあとにかく、 昔の私はどう思っていたんだろう?あんまり明確に覚えていないけれど、 いなくてもいい、とは思っていなかった気がする。 友達人数が多いから良い、とか、多い方が幸せ、というような雰囲気の中には 居た気がする。 ともだち100人できるかな、の歌を聴きまくっていたとすると、 おそらく脳みその中は「たくさんいた方が楽しそう/幸せそう/良さそう」という 状態になっているんじゃないか。 ちょっと言葉は強いけれど洗脳状態みたいな。 私流に言うと「思い込みが作られている状態」みたいな。 もしそういう状態になっていたとすると、 いざ小学校に入学して友達と呼べる人ができなかった場合、 親は「友達ができなくて心配、不安、大丈夫か」となる人が多いだろうし、 それが子どもに伝わって、子ども自身も「友達ができないとダメなんだ」となって。 たくさんの人と一緒にいることが好きな人と、 一人でいることが好きな人と、たった一人の気の合う人とだけ居たい人と、 みんなの中にいたいけれどちょっと離れたとこに居るのが好きな人と、 時と場合による人と、 人によってそれはそれは様々だと思う。 それに、 小学1年生のクラス分けの中に気の合う人がたまたま居ない場合もある。 いきなり気の合う人だらけの場合もある。 高校2年生くらいになって、一人だけ気の合う人が見つかる場合もある。 何かで読んだ内容で「コミュニケーション障害とされている人は、障害なのではなく、 コミュニケーションを取れる/取りたい相手がたまたま今まで近くにいなかっただけ」 とあって私は共感した。 コミュニケーションの取り方だって人それぞれだから。 ”まあまあ誰とでもなんとなく当たり障りなくコミュニケーションを取れる人”  がいわゆる「普通の人」で、それができない人は「

自分探しと自分剥がし

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「自分探し」ということで、旅に出たり、いつもと違うことをしてみたり、 気になるものを片っ端から学んでみたり。 でも。 外側のどこかには探している自分はいない。 そしてある時気づく。 「なんだ、私のなかに全部あるんだった。」 自分探し、という言葉を、自分剥がし、に変えてみる。 地球に生まれた瞬間から、周囲の大人たちによって刷り込まれていくアレコレ。 大人から刷り込まれ済みのクラスメイト達から言われる言葉たち。 自分の周りにペタペタと貼り付けていく、 常識・普通・一般的・平均的・道徳的・宗教的 などの自分を覆うラップのようなもの。 いつしかそのラップは『自分を守ってくれているもの』だと思うようになり 剥がすことが怖くなる。 変化が怖くなる。 同じようなラップを被った人と一緒にいることが安心であるかのように思う。 同じようなラップを被っていない人を見ると「変な人」だと思ったり、 「でもちょっとあこがれる」と思ったり、 「あの人を見るとイライラする」だったりもする。 自分を覆っているラップをもしも剥がしたら 何が起きると思う? どうなると思う? 私は、息がしやすくなって風通しがよくなって気持ちよさそうだと思う。 セルフヒーリング講座の受講生さんたちや、 私の個人セッションを受けた人たちが、 どんどん軽くなっていくのを見て、なんて気持ちよさそうなんだ! と思う。 そもそも、自分はラップに覆われている、と気づくかどうか。 気づく鍵は「あれ?」という疑問や違和感、モヤモヤ感。 その小さな「ん?」が起きた時、 「まあ、それが普通なんだししょうがないでしょ」 「そういうもんでしょ」 「気のせいかな」 と、流さないことも鍵だったりする。

アバター

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私は映画 「AVATAR 」(2009年 ジェームス・キャメロン監督)がとても好き。 人と話しているときにそれを伝えたら、その人はこんな感じのことを言った。 因みにその人は、この映画を観たことがないという人。 「え、、、あの映画って、人間がなにかに繋がれて人間でなくなって、戦って、みたいなやつでしょ」 その言葉の中には『りえさんがそんなの好きなんて意外なんだけど』という雰囲気があったように感じた。 それを聞いて私は「あ!」と思った。 「私が観て注目していたAVATARの世界と、この人が思っているAVATARの世界が違う」 ということが分かった。 例えば。 ピラミッド型のモノがあるとして、 私はそれを真上から見て「正方形だ」と思っている。 花子さんはそれを真横から見て「三角形だ」と思っている。 単に見ている側面が違うだけ。 それと同じようなことが今回のAVATAR好き/嫌い問題である。 私はAVATARの映画の何もかもが好きなわけではなく、何がすごく好きだったかというと、 パンドラという星に住むナヴィという民族たちの生き方。 生き方というか、在り方というか。 自分たち以外の生命体(植物も動物もすべて)との関係性が好きだった。 リスペクトしあい、自分たちもすべての循環の中の一部であることを知っていて、 それを楽しんでいて。 そして陽の沈んだ後のパンドラの森は、ぞわっとするほど美しかった。 今でもあの森を想うと、全身がぞわっとする。 言葉にするとうまく言えないが、パンドラの森の世界観が好きだった。 人間が何かに繋がれて、脳の中でアバターとして別世界を体験し、戦って、 みたいなことには、あまり注目していなかったので、その辺は私にとっては 補足映像?みたいな感じだった。 「また、人間はこうやって占領して戦って、ほんとバカ」とは思ったけど、 私の心はそこはサッと通り抜けて、ナヴィの森の世界へ飛び立っていた。 ということで、私がこの映画の何が好きなのか、を相手に伝えた。 私が好きだと思ったこの世界観は、その人も好きそうな気がする。 因みに2022年公開のAVATAR2は、全体的にあまり心躍らなかった。 極めつけは映画の最後の最後。 ラストのシーンのメッセージにドン引きし、映画館を後にした。 映像はとても美しかったです。 という感想を私は持った。 AVATARという英単語の語源は

子どもが話した生まれる前の記憶

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「子どもが生まれる前の記憶らしきものを話した」  「子どもが生まれる前の記憶らしき絵を描いた」 という話を聞いたことがある。 因みに私は「生まれてくる途中(出産の最中)の記憶を話した」というものも聞いたことがある。 生まれる前の記憶の話で「雲の上にいた~」みたいなことを聞くと フワフワした雲の上に無邪気な子供たちが遊んでいる、 というような漫画とか映画とかのワンシーンのようなイメージを私は想像していた。 水は情報を記憶する、水は記憶を保持する こういう説を読んだことがある(スピリチュアル系とかではなく科学の話)。 生まれる前の雲の上の記憶とか、〇〇村にいたとかの記憶について、 この観点から考えたときに、 子どもたちは何を記憶として持ってきているのか。 さとうみつろうさんが私が納得する内容を動画にしてくれていた。 山ほど情報があって、各方面の様々な人が様々な説を唱えるなか、 何が正しいかなんてわからないので ”そう考えた方が辻褄が合うよね” とか、 ”自分が違和感がない”  とか、 を自分の中の『正』にしている。 みつろうさんの動画の中には前世の記憶の話も出てくるけれど、 私は前世というものについては、以前書いたブログの通りの考えが益々強くなり 今のところそう信じている。 子どもたちが語る生まれる前の記憶の話  → さとうみつろうさんのYoutube  (TVから消された〇〇さん/水は情報を記憶する異常液体/日本の水が危ない) 私が今のところ信じている前世とは  → わたしの過去記事  (前世過去世というものがあるのかないのか)