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直感を無視したらひもじい思いをした

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車で移動しているとき休憩した場所にコーヒー屋台が出ていた。 それを見て「あ、なんかコーヒー飲みたいかも」と思った。 けれども「あと1時間くらいで目的地へ着く。着いたらもうお昼ごはん。」ということを聞き、 「うーん、じゃあやめておこうかな。」とやめた。 そしたらですよ。 その後いろいろあって、結局、水分にありつけたのも食料にありつけたのも、 3時間を過ぎた頃。 すっごく喉が渇いたしお腹も減ったしで 「あの時ふと思ったのを無視しなければよかった。。。」 となりました。 私は普段から直感を無視しない、ということを実践するようにしているし、 生徒さんたちにも口を酸っぱくして言っているのに、 時々こういった、一見些細にみえることで無視してしまう時がある。 その度に「ああ、やっぱりあの時の・・・」と後で分からされる。 そしてまさに今日のことですが、またあった。 朝起きてパジャマから洋服に着替えるとき、 なんとなく「ピンク色のニット」が着たいような気がした。 なんだけれど、 今日は夜に調香の仕事が入っていて、調香の時は黒色の衣類を着ると決めているため、 気分は違うけれど黒い洋服を選んで着た。 (着替えたらいい話だけれど、私は途中で着替えたり洗濯が増えるのが嫌なので一日同じ服で過ごしたい人) そしたら午後になって先方から連絡があり、急な体調不良により延期、となった。 これもまた、 「なんだ、やっぱり朝のあの感覚で合ってた」 という結果でした。 毎度毎度、ちょいちょいと、こんな感じで教えてくれる。 「あなたの感覚はあなたにとって正しいよ!」 ってね。 自分の感覚をいつでも信じること、それを実践すること、 もし実践しなかったとしても、 別のことを選ぶことに決めたのは自分なので、 どんな結果も受け入れること どんな結果だとしても楽しむ心を持つこと

身を任せた流れの先にワニとか居たら?

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「流れに身を任せる」 これを私は大切にしているし、そう心掛けている人は多いんじゃないかなと思う。 このことについて「そう!それ!」と感じることがあったので書きます。 流れに身を任せる、という状態を川に例えたとする。 どんな川を想像する? 私は穏やかな川でノホホンと浮かんでる様子がパッと浮かんだ。 その川が日本海へ向かってるのか太平洋へ向かっているのか、 川の水質状態はこの辺りはキレイだけれど 数十m先に汚水が注ぎ込む場所があるのか、 しばらく進むと200m落差のある滝があるのか、 滝つぼを過ぎると大きなワニ達の住むエリアがあるのか、 自分が流れに身を任せる川は、一体どんな川?? それによって身を任せたいかどうかは、YESかNOか変わると思う。 汚水も滝から落ちるのも嫌だし、 ワニに襲われてGAME OVERもまっぴらごめん、無理。 このイメージのように私は 「それ全然うれしくない、嫌」なパターンが色々あるので、 流れに身を任せる前に『行先』を決めておく。 川のイメージから頭を現実の世界へ戻して言葉を書き進めると、 「私はこうする(こうなる)」と先ずは決める、 その後に初めて「流れに任せる」状態をする。 すると、目的地に到着するまでの間に、 一見、ハプニングと感じる出来事があっても、 一見、まわり道をしたと感じることがあっても、 一見、停滞を感じる時があっても、 すべては『一見』。ぱっと見、そう見えるだけ。 あとになって振り返ると、 それらすべては、到着するまでのストーリーを おもしろくするために起こっているだけだったり、 到着したときの自分がレベルアップしている状態になるための体験だったりする。 「こうする(こうなる)」ということは先に決めているので、 途中に何が起ころうと、 それはただその時々で淡々と対応・処理したらよいだけのことだし、 文句を言ったっていいし気分が盛り下がってもいいけれど、 どんな渦中も瞬間も自分は目的地へ向かって進んでいるのだ、 ということは心の中に留めておく。 「こうする(こうなる)」を決めずに、 または決めているようで決めていない「こうだったらいいな~」くらいで 『流れに身を任せる』をすると、 途中にある様々な川の事情(自分以外の他者の事情や都合)に 巻き込まれたり、もみくちゃになったり、岸に戻されたり、岩でふさがれたり、 要はなにがおこる...

面接はお見合いだと思う

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面接、就学や就職のための面接の話。 サラリーマン時代、私は転職回数が多く、面接回数も多い。 元々ひどく緊張するタイプではないけれど、 通常の自分ではない状態の時もあったと思う。 合格したい、採用してほしい、よく見られたい、などの理由で 自分を装っていたり、うまく話そうとしたり。 なんだけど、ある頃から、面接に対しての私の態度、在り方?が変わった。 なにがきっかけだったのか忘れたけれど、突然こんなふうに思うようになった。 「面接って私のことをアレコレ聞かれるけれど、 私だってそっちのことを色々知りたい。 募集要項だけでは見えないことを色々聞いて、 自分に合う職場なのかどうかを判断したい。」 要は、 ” 面接は雇う側も雇われる側も、お互いのことを知る時間 ” だと思うようになった。 どっちかが主導権を持っているとかはなく、 双方ともに同じ立場だと思うようになった。 それからは緊張はなくなったし、 うまく話そうとか自分を良く見せようだなんていう考えも皆無になった。 そんなことよりも、与えられた面接時間内で、 相手には自分のことをなるべく知ってもらいたいし、 私も相手(会社)のことをなるべく知りたい。 ということで、私から相手へ質問することが増えた。 質問は条件や仕事内容に限らず、 思想とか考え方、雰囲気、などなど色々をキャッチするためのもの。 私が一方的に『面接されている』『審査されている』のではなくて、 私も相手を『面接している』状態だった。 そうすることが、お互いにとっての平和への道だと思っていた。 合わない人を雇用したり、合わない職場で働いたり、することは 後々お互いにすごくストレスになることだと思うから。 それに、自分が合わないポストに頑張ってしがみついているとき、 本当はそこにピッタリの人が活躍する機会と、 会社としてスムーズにまわる可能性を 奪っていることになる。 面接を終えた結果、相手が私を断ってきたこともあるし、 相手は私を採用したいと言ってきたけれど私が断ったこともある。 先日、就職面接の話を聞く機会があって、 こんなことを思い出したのでブログにしてみました。

雨が降ってきたら「やべえ!」のか?

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Aさん「うわ!やべ!雨じゃん!最悪~!!」 Bさん「あ、雨、傘持ってないな~。。。ん?あの雫すごいきれい~」 Cさん「やった!雨!これで庭の水まきしなくていいじゃん!ラッキー!」 Dさん「△×□◇▽涙怒悲・・・」 (他のこと考えてて雨に気づいていない) Eさん「洗濯物濡れちゃう!まあ、乾かせばいいし、いっか」 Fさん「雨、、、あ、もしかしたら後で虹が出るかも(*‘∀‘)) この6人全員が一緒にいたとして、他者の反応に対して「ムッ」としたとします。 例えばこんなふうに。 「こんな最悪な状況で『きれい』とか言って、頭どうかしてんじゃないの?」 「濡れたらどうするの?そんなあっけらかんとして」 「雨が降らなかったらどんなに大変か、全然わかってないなあ」 「また乾かせばいいだけなのに、なんでムカムカしてるんだろう」 「雨なんてどうでもいい。なんでみんなそんな呑気なわけ?なのに私は。。。」 「未来永劫降り続けるわけじゃあるまいし、大げさだなあ」 「雨ってすごくきれいな風景が見れるんだよ!?気づいてよー」 「私に雨は止められないんだからしょうがないじゃん」 こんな感じの言い合いとか? 心の中での言い合いの人も多そうですが。 これ、100人いたら100通りの反応があるはず。 その中で更に、 100%嫌がってる系の人たち~全然気にしない系の人たち 似たような反応の人たちごとに、大まかなグループに分けることができる。 (同じグループにいる人たちが似た者同士、類友、似た波動・周波数の人たち。隣のグループとはなんとなく話が合うこともあるし合わないこともある。すごく離れたグループだと全く嚙み合わないし、会うこともない。同じグループの中でも更に同じように細分化がある。) 雨が降ってきた、という事実は全員共通で同じ1つの出来事。 けれども反応(解釈)は人の数だけある、みんな違う。 更には、 同じ人であっても、先月の反応と今月の反応は違うことだってある。 なぜかというと、その時のその人の事情や都合によるから。 しかもその事情や都合は、本人にしか分からない物のことも多い。 AさんがFさんの言葉を聞いて 「ん?虹が出るの?それは見てみたいかも」と、もしも思えば、 次に雨が降ったときにFさんのような反応に変わるかもしれない。 Cさんの身になにか大変なことが起こっているときには、 Dさんのように雨に気づ...

対話型調香セッションawai

これまでおこなっていた調香セッションをリニューアルしました。 いまのところ価格も以前のままだし、やり方が大きく変わったわけではないけれど、 私的には大きく変化した感覚を持っています。 旧『ナカソトノカオリ』は、2024年10月10日より 『 a 〇 i 』(awai)となりました。 ウェブサイトに載せている文章を抜粋します。 /////// ●香りと感情の関係   セッションで使用する香料は、植物から抽出された香気成分です。 香りを嗅ぐと、香りは電気信号に変換され脳へ届きますが、 嗅覚は他の感覚器官 (視覚・触覚・味覚・聴覚) には無い独自の特性を持っています。 嗅覚以外の器官は感覚を感じると、まずは左脳 (理性や思考を司るエリア) へ電気信号が伝わります。しかし、 香りの電気信号だけは左脳を経由せず 右脳へ直行し ます。右脳は感情や記憶や本能を司るエリアで、潜在意識に含まれます。香りを嗅ぐと、思考がアレコレと考え始めるよりも前に、潜在意識の部分への働きかけが起きるということです。   そのことを知ってか知らずか、古代から世界中の儀式の場で、 精神的な変化や場の浄化、人以外の存在との繋がり、などを目的として 植物の香りが活用されてきました。 例えば寺院で線香が使われるように ” 香りのない宗教は存在しない ” とも言われます。 (唯一、神道では表向きは香りを使用しないようです)   私たちが言葉を発したり行動をするとき、出発点となるものは感情です。 ささやかな揺らぎの感情から爆発的なものまで、感情が スイッチとなり言動活動に結びつきます。 その感情の部分に働きかけるものが、先に記した通り香りです。   目に見えない感情、そこに影響を与える香り、が先にあり、 その次に、目に見える言葉や行動が生まれます。     ●あなただけの香りが持つ力   香りを創る前に、あなたとの対話の時間をもちます。 このセッションを受けるきっかけや香りの好みの傾向などを伺いますが、 私はその場で生まれる直感的な流れを大切にしているため、 質問の内容は人により千差万別です。 耳に聞こえる言葉だけでなく、ふとした表情や反応、感情の揺らぎなど、 そこにある全てのエネルギーを感じさせていただく時間です。   対話の中で私が...

左回転で身体が緩むのか?

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「お腹に手を置いて、左回りにゆっくりなでると、身体が緩む」 私がこれを始めて聞いたのは、多分お父さんから。 聞いたのは20年以上前か、さらにそれより前、 まだあんまりインターネットが普及していなかった時代。 その時に理由も教えてくれたと思うが、それは覚えていなくて、 「ネジは左に回すと緩み、右に回すと閉まる。それと同じと覚えておけば良い。」 と言われたことは覚えていた。 ただ私は普段ネジそのものを触る機会があまりなかったので、 いちいち「ネジってどっちがどうだったっけ?」となってしまって、 まずはネジを触った数少ない記憶を思い出すところから始めたり、 「自分のどっちから見て左周りだっけ?」と考えてみたり、 いちいち面倒な感じになっていた。 今思うと、ネジは水道の蛇口と同じだから、 左に回すと緩んで水が出る&蛇口が軽くなる 右に回すと閉まって水が止まる&蛇口が固くなる のイメージの方が、当時の私には合っていたかもしれない。 その頃はまだ、そういう仕組みの水道も多かったし。 (もしかして父はネジ=蛇口は当たり前に同じものと思うはずだ、として「ネジ」と言っていたのかも。仕組みを知らない当時の私は連想できなかった。) 今だったら「ペットボトルの蓋を開ける時と閉める時」というイメージが良いかも。 そしてその後、 お茶を急須から器に注ぐとき、手をなんとなく回転させながら注ぐ理由は その方がお茶が美味しくなるから。日本でもトルコでも云々。 というような情報を見かけた。 なんだけれど、やっぱりそこでも私は、 回転させる理由は美味しくなるから、は分かったけれど、 なんで美味しくなるのか、の理由を覚えていない。 。 。 。 そのまま20年が過ぎました。 そしてこの文章を書いている日の前日、友人がお茶を淹れてくれた時に 「左周りと右回り、それぞれにかき混ぜて飲み比べてみて」と言ってきた。 「そうそう、それ!」と思い出し、それぞれの味わいの違いを楽しみながら、 違いが生まれる理由は何だと思うか尋ねてみた。 その友人は、中医学も西洋医学も専門にしていたり、様々知識の深い人。 友人曰く、 地球の自転が左回転(北極側から見た場合)なので、 ・左回転は無意識に人は安心する ・道に迷った人を探すとき左→左→左で探すと見つかりやすい  (迷いながら自然に左ルートを選んで進んでいる可能性高いから) ・陸...

ピンクのバナナは想像しないで!

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ピンク色のバナナは想像しないで! と言われたら、瞬間的に頭の中に浮かぶのは? 私はピンク色のバナナが浮かんじゃう。 これ系統の話、聞いたことのある人も多いかもしれない。 ピンク色のバナナ想像しないで!と言われても、 脳の仕組上、誰でもが、 ピンク色のバナナを頭に思い浮かべちゃう、のが普通。 あ、でも、バナナという物自体を知らなくて見たこともない人は 思い浮かべることはできないけれど。 人の意識の中の95~97%を占めると言われている潜在意識(無意識の領域)は、 その量もあって、私たちの思考・感情・言動に及ぼす影響は多大。 だって意識の殆どを占めているわけだから。 で、 潜在意識は肯定文と否定文を区別しない。 なぜかというと潜在意識は言葉ではなく、 イメージで受け取る機能を持ったモノだから。 ピンク色のバナナを想像しないでください という否定系の文章であっても、 ピンク色のバナナが出てきてしまうのはそういうわけです。 なので、なにかの願いごとをする時や、望む状態があった時、 その望みの状態を本当に叶えたいのであれば、 もしくは、絶対にそうなってほしくないことがあるのであれば、 言葉の使い方を工夫したらいいと思う。 例えば日常の中でのこんなこと。 「転ばないようにね」= 転ぶイメージが潜在意識へ伝わっている 「焦らないでね」 = 焦っているイメージが潜在意識へ 「太りませんように」 = 太っていくイメージ 「怒られませんように」 = 怒られるイメージ 「雨が降りませんように」 = 雨が降って残念がっているイメージ 「戦争は反対です」 = 戦って大変な世になっているイメージ ここに書いた『イメージの方』が、潜在意識へ伝わり、 そして潜在意識の次の仕事が始まる。 次の仕事とは、まるでパズルのピース集め。 そのイメージの現実化(=パズルの完成図)を目指して、 必要なピースをどんどん集め、 出来事として起こしていく、情報を見せたり、聞かせたりしていく。 心の状態もそれに近づけるため、記憶を思い出させたり、 思考させたり、ホルモンの分泌状態すら変えていく。 「太りませんように」と願う = 太っていくイメージ  =潜在意識「太るんですね。了解。そうなるために必要なものをどんどん集めますね」 =やたらに甘いものが食べたくなる、炭水化物ばかり思いつく、やけにお腹が減る、いつもよ...

運のいい人、になっておいて損はない

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運のいい人 という言葉って、 一発大きく当てる人のことも、日常的に細々ラッキーなことが起こる人のことも まとめて言っている気がするので、 ここでは日常の方。 「常に自ら開運していける人」=「開運体質の人」 のことを運のいい人と呼びます。 運がいいと、なにが起こるかと言うと 「なんか知らんけどおまけしてくれたー」 「ちょうど並ばず入れたんだよね」 「私は買えたけど、すぐ後の人は売り切れだった」 「私が通ったときはたまたま渋滞じゃなかったよ」 「たまたまキャンセルで空きが出て予約できた」 「たまたま欠航になったおかげで、待ち時間中にあの人に会えたんだよ」 「ちょうど私の後の列車から運航停止だったらしい」 みたいな感じで、 「えー良かったねえ」というようなありがたい出来事に遭遇する。 こういうことが起きると大抵 「偶然に」とか「たまたま」とか「なんだか知らないけど」 とかいう言葉をつけて話す場合が多いと思う。 これ、本当は偶然でもたまたまでも神業でもなく、 れっきとした物理の法則なんだけれど その話はここでは横においておくとして。 例えば、こういった運のいい人が自分のグループに一緒にいたらどうだろう? よく言われる例としては、 「雨女/雨男だから雨になった!」ってありますよね。 本当に雨女かどうかは別として、雨女本人だけでなく、 一緒に行動を共にする人たちも全員もれなく雨女の影響を受けるパターン。 (晴れでも同じく) そう、 多かれ少なかれ、身近な人の影響を必ず受ける。 これも物理の法則で説明できること。 人間関係の単位である、カップル・親子・家族、というグループに 一人だけでも開運体質の人がいたら?? または、集合住宅の同じ階、同じ住宅地、会社の同じ部署、同じ町内に、 開運体質の人がいたら?? そしたら先にあげた例の「たまたま私の云々」の「私」が「私たち」になる。 「たまたま私たちだけ云々」 「偶然うちの家だけ云々」 「ちょうどうちのエリアが云々」 言い方が適切かわからないけれど、 「おこぼれにあずかる」的な感じになる。 開運体質の人が一人でもいる家は、家族全員ラッキーなことに遭遇する可能性が高い。 分かりやすく家族と書いているけれど その近くにいる人、関係性が近い人、という意味。 要は、最低でも自分一人が開運体質でいられれば、 自動的に周囲にも貢献することになる、とい...

「こういう自分になりたい」は本当にそうなる

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調香セッションでクライアントの香りを創るとき、まずは対話の時間を持つ。 香りを創るにあたっての、だいたいの質問事項は用意してあるが、 その時によって使う質問と使わない質問があり、 その時の話の流れや、閃きでする質問もある。 いわゆる『匂い』に関する質問もするけれど、 そうじゃない話もたくさんするので、 初めてセッションを受けてくれる人からは 「いまの話の内容で、一体どうやって香りができあがるんですか?」 と逆質問を受けることもある。 「本当は私、こういう自分になりたいんです」 という想いを伝えてくれる人も多い。 調香セッションでは、そういう自分に向かうための一つのツールとして、 植物の香りを強力なサポーターにする。 それにはちゃんと理由があって、 人の嗅覚と脳とホルモンの連携、潜在意識と顕在意識の関係、量子力学の仕組み、 そういったことで説明ができる。 因みに私は「こういう自分になりたい」という想いを聞いたとき、 100%のレベルで心から「なれますよ」と思っている。 もちろん可能性というのは無限にあるので、 どのチャンネルを選ぶかは、その人のこれからの思考と行動パターンによる。 けれども、なぜ確信をもって「なれて当然」と思うかと言うと やっぱりここにも理由がある。 脳と波動エネルギー(量子力学)の仕組みからすると、 自分とは全っっっ然別世界のものは「そうなりたい」という想像すらできないから。 例えば、ネットの中でも実世界でもいいけれど、憧れの人がいるとする。 憧れるという時点で、もうそこにはエネルギー共振が起こっている。 そもそも同じ人を知っていたとしても、憧れなんて抱かない人もいる。 「ふーん」「そういう人もいるんだな」くらいで終わるか、 もしくは視界にすら入らない。完全スルー。 (これも脳の仕組み) 「こういう自分になりたい」の ”こういう状態” を イメージできているということは、 お互いに何かしらの干渉(触れあう部分)があって、 触れているからこそ共振共鳴する。 すでにその状態は、自分の射程圏に入っているということ。 だから、 その状態を現実のものとするために、 香りだったらこう使う、 引寄せの法則だったらこう使う、 感情思考解放ヒーリングだったらこう使う、 という具合に、 自分と縁あるものをサポーターとして活用したら良いのであります。 それであとは、そのサ...

思考の備え(防災用品みたいに)

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ミナミAアシュタールさんのYoutubeを見ていたとき 「思考の備え」という言葉が出てきたときがあって。 そうだ、その言葉!と思った。 日本では防災のため、水やらなにやらの ”物 ” を備えている人は多いのだろうし、 さらに、避難経路や場所などの ”動き ”を家族全員で確認しあっている人も多いと思う。 じゃあ『思考の備え』とは何か。 質問でーす! 自分が行動するときのきっかけは何でしょう? または行動をやめるときのきっかけは? 他者や出来事に向けて言葉を発するときのきっかけは? ちょっと自分の言動を思い出してみると、 気分の上下、さまざまな感情の揺れ、いろいろな思考(こうあるべきとか)、 がきっかけになっているはず。 余裕のある気分のときは、 人に対して広い心で対応できるし許せたりする。 イライラしている時は、 物も人も丁寧に扱わなかったりする。 つまらないと感じると、 どんなに熱心に話しかけられても集中できなくなる。 すごく好きだと思うと、 他のことは目に入らず一目散にそこへ向かうことができたり。 情熱が冷めてきて面倒になり、 習い事に行くのをやめる。 自分が我慢していることを他人が自由にしていると、 許せない気分になり批判の言葉が出る。 落ち着いた気分のとき、 物事を冷静な視点で眺めることができたり。 「あなたの言葉も行動も、ぜーーーんぶ、 あなたの感情や思考に支配されているんですよ! あなたを支配している存在は、あなたの感情や思考です。」 と言っていいくらいに影響を与えていると思う。 パッと口から出た言葉、ついしてしまった行動、 またはそれがよく考えた上で言ったこと、したことであっても。 その根底にあった自分の本当の本当の感情や思考、は何だったのか? 例えば会社の人事や、 国同士の関係での大きな決断(例えば原爆投下の場所)なども 結局最後の決め手は「感情」であることが歴史をみると分かる、 という本を読んだことがある。 どんなに戦略的に論理的に考えて決断して行動すると言われる種類の人達であっても、 結局最後は感情が決め手になることも多いそうだ。 計画を練って話し合いを重ねて最後決める時、 いまこの瞬間選ばなければいけない時、 「Aはやっぱり気にくわないから」「Bは想い出のあるとても大切な場所だったから」 「Cにはどうしても違和感が残るから」 みたいな個人的な感情...

猫のようにするといいらしい

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大人になってから、ある時に気づいたことがあった。 「私は身体にいつも力が入っている」 初めのころは、だからそれが何なのかとか、それをどうにかしようとか、 思っていなかったのだけれど、 実はその力みが体調に関係していることに徐々に気づいていった。 気づいてからは、意識してリラックスさせることをしてみたが、 ふと気づくと、また力が入っている。 グーッとパワー的な力を発しているというようりも、 長く静かに続く緊張感の系統の力み方。 常に緊張状態にいることが通常モードになっているらしかった。 力を抜くための動作をいくつか習慣にしてみたり、 香りを使ってみたり、潜在意識下に入っているものを解放してみたり、 身体に聞いて押し込めていた感情を解放してみたり、 いろいろ試して以前よりも随分マシになったのは感じている。 でも、まだある。 最近自分はそこをもっと集中的に改善したくなっている時期ようで、 ふと目にするインスタ投稿が、 私と同じような緊張モードの人の投稿だったりする。 自分の身の周りに起きる出来事は、自分の思考の反映なので、 自分がよく目にするもの耳に入ってくるものを観察すると、 自分が何に意識を向けていたのかがよく分かる。 先ほどみたミナミAアシュタールのYoutubeでも ちょうど緊張モードの話がテーマになっていた。 そこで、相談を受けていた宇宙人アシュタールさんが答えていた中にあった言葉が 私的には印象的だった。 力が入っている=緊張状態=戦闘態勢=何かから自分を守ろうとしている あなたは何から自分を守ろうとしているのでしょうか? というようなことを言っていた。 緊張状態、までは私も思っていたけれど、 それが戦闘態勢とは考えていなかった。 もし私がこの状態だとしたら、 一体わたしは何から自分を守ろうとしているんだろう? という視点で自分をみてみたら、出てきた映像と感情があったので、 それらは解放して、思考設定も取った。 わたしは「息をひそめていなければいけない」という状態にあった。 取った瞬間に体感で分かるのだけれど、これは割と大きめなものを取れた。 あと、猫のこともアシュタールさんは言っていて、 試したことがない系統のことだったので、やってみようと思う。 実は聞いた後にすぐにやってみたが、まだうまくできていないので、 今後も引き続き試してみる。 これまた全然関係のな...

メタトロン診断

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自分の身体の状態を知るため、 年に1~2回くらいのタイミングでメタトロン診断を受けている。 日本の病院でやっているような健康診断は、10年くらいは受けていない。 メタトロンは周波数測定機器で、 元々はロシアの宇宙飛行士の健康診断のために開発されたもの。 細胞、体液、神経、筋肉、臓器、骨、感情 etc、 体内をくまなくスキャンしていくので ものすごく様々なことが分かる機械なのだけれど、 初めて受けたときに私が一番知りたかったことは、 自分と夫の今の身体に合う食材と合わない食材。 家での食事は私が準備することが殆どなので、知っておきたい情報だった。 かといって、ストイックになりすぎるのは好きではないので、 「参考にする」というくらいなスタンス。 因みに診断では、機械から出てきた数値や言語を単に見て終わり、ではなく、 診断士が数値から読み取ったことを教えてくれたり、 それについて話し合ったり、 いろいろな視点・方向からのアドバイスを聞いたりする。 ここが人間的な部分で私はとても好きだし、 割と重要視しているポイント。 ただし、人間が言葉を発するということは、 ”診断士の知識の広さ深さや人となり” によるところがめちゃくちゃ出る部分なので、 どんな人からメタトロン診断を受けるか、がとても大切だと思っている。 私は幸い、自分的にとても信頼できて波長の合う人と出会えたので 毎回その人に頼んでいる。 そう、それで去年の今ごろに受けた時に、 小麦粉が要注意食材のリストに上がってきていた。 それまでは、そのリストに何か出たことはなく、初めての経験。 それを見た時「あーやっぱりそうなんだ!」という感想だった。 私はパンが大好きで年中ほぼ毎朝パンを食べていたのに、 去年の夏頃は食べたいと思わなくなっていた。 それにその頃、小麦の麺類やピザなどを食べると、 なんだか気持ち悪くなるような感じがすることがあった。 という体感があったので「やっぱり」だった。 アレルギーにはなっていなかったのがラッキーだった。 パンもピザもパスタも大好きだから、おいしいものをこれからも楽しみたい。 何故このタイミングで、こういう結果になっているのか、 というところについて、 その頃の生活を振り返ることや、入れるもの出すもののこと、 様々な要素から読み解いてもらったりして、 気の流れ、思考回路、感情、季節、食べ方、...

私はスピリチュアル系か?

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この2年くらいで出会った人から、時々 「りえさんのようなスピ系みたいな人って云々」という言葉を聞くことがあって、 その都度私は心の中で「え?私ってスピ系と思われてるの?」と少し驚く。 少し驚くけれど、大抵そのときの話の焦点はそこではないので、 その部分は聞き流して、話しの本筋の方に集中して耳を傾けている。 そもそも「スピリチュアル系」とは何か、というのは人によって認識の違いはあれど、 「こういうことが好きな人たち」みたいな、 世の中で言われる(おそらくメディアが広げた)認識というのがある気がする。 私が感じている「スピリチュアル系の人」は次のような感じ。 神社仏閣系統が好き、お参りにいくのが好き、龍とか妖精とか好き、神様系の話が好き、崇めている対象がある、占いとか好き、目に見えない存在が好き、高次元が好き、パワースポットが好き とかとか? いま思いついたものを羅列しました。 私はヒーリングスクールやセッションの仕事を始めて、 講師も受講生も含めて、そこで関係する人たちと触れ合う中で気づいたことは、 「出身地の違い」 みたいなこと。 上に羅列したような界隈の人が多いように感じたことが何度かあったことで、 「私、そこ界隈の出身じゃないんです」と思うに至ったし、 それが私の特徴なのかも、と思った。 因みに出身地が違うからといって、仕事をするうえで困ったことはない。 ただ単に、私とは違う見方の話を耳にする機会があったり、 私の知らない世界の話(占いの館とか)を耳にするだけ。 で、やっぱりそういう時も話しの本筋はそこではないので困ることはない。 (自分自身の生徒たちは、類は友を呼び、私と似た系統の人が多かったりする) 私は上に羅列したものは、しない、行かない、興味がわかない、という感じ。 あっても、たまにチラッと覗き見するとか、参考情報のひとつにするとか、 いいとこどりして終わりとか、その程度です。 何かが視える聞こえるで困った経験もない。 存在は知っているし尊重はしているが崇めてはいない。 なんというか、全員同じ(レベル?階層?)だと思っているというか。 おそらく単なる興味の方向性の違いや、信じているものの違い、かもしれない。 物質的なものではないものをSpiritualと言うならば、 私は、この世はスピリチュアルで成り立っている、信じている。 この世は目に見えないものの方...

私のゴールが変わった

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ここで言うゴールとは、死ぬとき、の意味。 いまの私の肉体を離れるとき。 どうやって死ぬか、は知らないけれど、 どう感じて死ぬか、は私は昔から決めていた。 前から決めていたのは 「あ~なかなかおもしろい人生だったな クスッ」(と笑って)終わり だった。 それが先日、自分の理想の死を書く機会があったので、 改めてそれを書こうとしたら、あれ?なんか違和感。 すごく違和感。 それで気づいたのは、 私のゴールが前とは変わってる、ということ。 新しいゴールは、 『あ~やりきった!おもしろい人生だった!ありがとすべて!大満足!これにて終了!』 という感じでバイバイするものだった。 これ、こうして文字だけだと変化が分かりづらいかもしれないけれど、 私的にはその時(死ぬ時)の感情がめちゃめちゃはっきり感じられていて、 前と今の違いがすごく分かる。 なんというか、ホテルの部屋がアップグレードされたみたいな感じ。 なんで変わったのかなーという理由も、自分を振り返ると分かる。 少し前に自分の人生の進め方を設定しなおしていたから、 前のゴールだとズレが生じたんだと思う。 というか、目標設定の視点から考えると、 まずゴールを決めてそこからだんだん細かく落とし込む、 という順番がある。 もしかしたら私は実は、無意識レベルで先にゴールを変更していて、 それで、人生の進め方を設定しなおそう、 と思ったのかもしれない。 まあ、順番はどっちでもいい。 とにかくゴールは変わっていた。 変わったことが、文字にして書く機会があったことで、 はっきり自分で分かった。 って、入力しながら鳥肌。 私、この前の日に以下のようなオーダーを宇宙へしていました。 「私は本当はどんなライフスタイルを望んでいるのか、 はっきりとコレだ!とわかることを私に起こしてください」 多分このオーダーの答えが、 自分の死に方を書く機会だったんじゃないかな。 じゃあ、そこから続くオーダーをするとしたら 「このゴールへ向かって、具体的に私が何をしていったら良いか、 私がはっきりとコレだ!と思えるような出来事を起こしてください」 と、してみてもいいかなと思っている。 因みに、死ぬときどんなことを思って死にたいか、ということを 決めておくと良いと思ってる。 なぜならば、 日常にある細々とした様々な願いや望みや、思考回路や行動というのは、 最終的に...

引寄せの法則はスピじゃない

モノは上から下へ落ちる、なぜなら重力(引力)があるから これは地球に生まれた人は全員知っていること。 落ちる理由が重力の影響だということは、遅かれ早かれ知る。 物理学的な難しい計算式なんて知らなくても、 ” どうしたらどうなる ” を当たり前に知っているので、落ちないように気を配ったり、対策したりする。 地球に生きている限り、死ぬまでずっと、全員が、この法則のなかに生きる。 これと同じ原理が、引き寄せの法則。 引寄せの法則、というと、スピリチュアル分野の話だと思っている人が まだまだいるようだけれど、 これは、モノが落ちる法則と同じく、物理学の法則。 ” 物理学の法則だから生きてる限りずっとその法則が全員に働いている ” ということが、インターネットの普及などによって 物理の専門家でない私のような人でも、これを知る人が物凄く増えていると思う。 多分、引き寄せの法則という言葉で日本にバーンッと紹介されたきっかけや その後の経緯などが『これはスピリチュアル業界の話だ』という認識を 多くの人に植え付けたんじゃないかと思ってる。 話を戻すと、引き寄せの法則は、 生きている限り嫌でもなんでも、全員に働いている法則 なのだから、知っておいて損はない、というよりも、 知っていなくちゃ生きるのに不便、知っていて当然、という事だと思うし、 言い換えると、知らなかったら生きるのに苦労する、だと思う。 ・モノは落ちるんだから手でしっかり持っていなくてはいけない ・モノは落ちるんだから台の上に置いておかなくてはいけない ・モノは支えが必要だからこそ家具というものがデザインされた ・モノは上へ浮いていかないから今のようなデザインで良い 上記のことって、当たり前の当たり前って感じですよね。 例えば、別の惑星の人が初めて地球に来たとする。 しかもその惑星は例えば限りなく重力の低い惑星だったとする。 そしたらきっと、その異星人は地球での生活がうまくいかないことだらけだと思う。 到着した途端から、モノは落として壊す、座ろうとして尻もちをつく、そもそも歩けない、とかね。 地球人のように振る舞おうとすると、おそらくこうなる。 引寄せの法則は、成功哲学界隈(?)では次のように言い換えられている。 現実創造、思考の現実化、願望実現 どっちにしても、なんだかある特定の分野の人たちの話、みたいな雰囲気を感じるか...

ルーティンとは

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決まった動作の繰り返しや毎日の日課、などを意味する単語ルーティン。 「これが私のルーティンワークなの」 「私のモーニングルーティンは云々」 「まずはあなたのルーティンを書きだしてみて」 とかいう感じで使われている。 朝起きたらとりあえず窓を開ける、〇時になったら必ずコーヒーを飲む、食べた後は必ず歯磨きをする、必ずこの道を通って家に帰る、 などの日常の動作もそう。 どちらかというと無意識にしていることだったり、 どちらかというと機械的作業、お決まりの作業。 ルーティンから抜けてみる ということをするとどうなるか? ルーティンは無意識的な行動パターンなので、 それをやめるということは、 その都度ちょっと考えたり、その都度選択にせまられたりすることになる。 自分の日常を変化させたいな、今の状況いやだな抜けたいな、 自分の感覚をもっと研ぎ澄ましたいな、 なんかおもしろいこと起きないかな、 という場合は、ぜひ! ルーティンから抜けることを試してみるといいと思っている。 例えば上に書いた例で、 ルーティン(=無意識)を ルーティンじゃなくする(=意識的にする)とすると、、、 朝起きたらとりあえず窓を開ける → 朝起きて部屋の空気の状態を感じてみて「なんか淀んでるな」「息苦しいな」と思ったら窓を開ける 〇時になったら必ずコーヒーを飲む → 〇時になったけど今わたしは本当にコーヒー飲みたいのだろうか?と自分に問う もしくは〇時じゃないけどコーヒーを飲みたい時があるかどうか観察する 食べたあとは必ず歯磨きをする → 本当に歯を磨きたい感じがするのか自分に問う もしかしてうがいだけで気が済むか試してみる 例えば歯磨き粉はつけずにブラッシングだけならどんな感じがするのか試してみる 必ずこの道を通って家に帰る → 別のルートから行ってみる 曲がる場所を一ヶ所手前にしてみる とかね。 こんな感じでちょっと変えてみると、 いつものルーティン=パターンから抜け出る。 「こんなちょっとしたこと意味あるの?」 と思いながらも、きっとやってみると、 「なんか面倒くさい」「いちいち考えるの大変」 と感じる人も割といるんじゃないかな。 自分の日々になんの変化も求めてない人は何も変える必要はない。 なにかしら変化を望んでいる人は、 ぜひとも実験だと思って試してみるとおもしろいです。 こういう日常のささいな変...

西方面への/からの引き力

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私が曼荼羅を出展していたArt&Graphic Exhibition。 そこで起きた自分的におもしろかった事について(Artとは関係ない話題)。 作品を出展しませんか、というお話は東京の日本橋にあるギャラリーからのものだった。 「東京かあ」と思っていた。 別に残念に思っていたのではなくて、私はあまり東京という場所に縁があったことがないので 珍しいなという感覚だった。 東京に縁がない、というよりも、日本だったら西方面に縁があることが凄く多かった。 場所との縁も、人との縁も。 ギャラリーでの展示を受けることに決めたのだけれど、 最初に提案された日程は、私が返事をした時点ですでに定員に達していて、 (ギャラリーでは月に2回程、入れ替えで展示をしているらしい) 別の日程を改めて提案され、そこに決まった。 それが私が展示した7月末の日程だった。 この展示は作家4名によるグループ展。 事前に他の作家の名前は知らされていたけれど、私は事前に調査?などはしなかったので どんな作品なのかは、実際に展示を見に行ったときに知った。 ギャラリーは箱型のWhite Cubeと呼ばれる空間で、 四面の壁それぞれ一面が、一作家の展示、というふうになっていた。 私の曼荼羅と向き合う壁には、私と同じ名前のRIEさんの作品。 しかもそれは点描画。私とは表現も画材も違うけれど、技法としては点描。 この日、キュレーターの方と直接お話をして知ったのだけれど、 偶然この日程に集まった四人、だそう。 (因みに、それぞれの作家を広大なネットの中から探す時は、 機械的に、作業的に、とりあえず一斉検索、返事来たらラッキー、 みたいなふうにはやっていないことも分かった。しっかりそれぞれの人のことを調べてくださっていた ) で、キュレーターとお話していたときに、たまたま地域の話になり、 「この方は大阪、この方は京都、あ、この方も京都ですね」 と、私以外の作家の拠点を知らされて笑った。 「なんだ、東京と思ってたけれど、中身はやっぱり西方面じゃん」 と思った。 そして後日、インスタアカウントのある作家の方々へ挨拶のdmをした際に またおもしろいことがあった。 ある人が現在住んでいるエリアが、私が学生時代の二年間を過ごした街だった。 超ローカルな駅名や場所の名前などが共通話題であがった。 西方面に縁がある そう思っているから、...

In the white cube

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レクトヴァーソギャラリーで行われたArt & Graphic Group show 展示の様子の写真をギャラリーからいただきました。 天井も床も、右も左も、前も後も、すべて白色の箱型空間。 作品と向き合ったとき、作品以外に視界に入るものがない、という状態。 その状態をつくりたくて、このような空間を作ったそうです。 空間に使われている白色塗料や電灯色は、 ただ単に「白であればいい」というものではなく、 「明るい自然光が降り注ぐ中にいるような感覚」を得るために 調整された色や光調だと伺った。 そのなかにいた曼荼羅たちは、確かに自然光の中で見るような色合い、風合いでした。 今回、どのような人々が見に来られ、どんな体験をされたのかは 今のところ私はまだ知らない。 『見る』という行為をするということは、 物理的に必ず、相手側へ自分のエネルギー(光子)が飛んで行って 当たって跳ね返ってきて『見える』になる。 なので、エネルギーが当たった相手側にも、必ず何らかの影響が出ている。 お互いに影響を与え合っているはず。 水の中に何かを落として、そこを中心に波紋が広がるように、 どんな波の響き合いが生まれているのか、 それはどこに到達するのか、 それが私の楽しみのひとつです。 足を運んでくださった人々、心を寄せてくださった人々、 関係したすべてに、 ありがとうございました♡ http://www.recto.co.jp/verso/archives.html 展示のスライド 8月2日(金)12時まで公開中 点描曼荼羅作家 瀬戸里絵  

日本橋での展示は土曜まで

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火曜日から始まった展示を見に行ってきました。 私の知らない場所で壁にかけられている曼荼羅たちは、どんなふうだろう? ギャラリーのコンセプトが 『作品と向き合う静かな空間を提供する』 というもの。 そのコンセプトに基づき、作家の在廊はしない展示会で、 私も一観覧者として興味を持って見に行った。 その空間は、ギャラリーの人すらいなかった(もちろん監視カメラはついてる)。 天井も床も四面の壁もすべてが白。まさに、 The White Cube 窓はどこにもないのに、サンサンと柔らかい自然光が注いでいるような空間。 その壁の一面にある3つの曼荼羅。 「宇宙だなあ。。。。」 と思った。 私は自分が描いた曼荼羅に対して「自分のモノ」のような感覚は全くなくて、 赤の他人?、自分とは別の個性の人?、 いい表現が浮かばないけれど、こんな感じの感覚を持っている。 描いたのは私だけれど、 できあがった曼荼羅は私とはまったく別人格のひとりの人、という感じ。 だからなのか、 展示されている曼荼羅を見る時も、 「わ~私の曼荼羅がここに!」などとは思わなくて、 もうちょっと一歩引いた感じで見ている感覚がある。 この感覚、、、、何と言えばいいのか、うまく言えません。 ギャラリーのある建物自体は東京大空襲でも生き残った貴重な建物。 内装もイタリアの建物を思い出すものだった。 建物の前に到着して、扉を開けて入り、階段を上っていくところからの流れも、 楽しめる展示なんじゃないかな、と思う。 異世界の中の異世界の中の、また異世界。 展示は7月27日(土)迄です。 ご縁ある人に曼荼羅を体感していただけたら嬉しいです。 ーーーーーーー 創造のイノベーション 2024年7月23日(火)~27日(土) 火-金 12時~18時、土 12時~15時半 RECTO VERSO GALLERY  レクトヴァーソギャラリー 東京都中央区日本橋茅場町2-17-13第二イノウエビル 4F ・展示は4名によるグループ展になります ・私 瀬戸里絵の展示作品は原画3点 ・作品の購入もできます ーーーーーーーー 第二イノウエビル  http://inouebldg2.jp/ レクトヴァーソギャラリー  http://www.recto.co.jp/verso/

本来の自分

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" 自分を変える必要なんてない。あなたはあなたのままでいい。けれども、もしあなたを覆っている何かがあるのであれば、いち早くそれは取りのぞいて、本来のあなたへ戻る必要がある。変える必要がないのは、本来のあなた、のこと。” 上記は、私が好きな作家の浅見帆帆子さんの言葉。 一言一句は同じではないけれど、このようなことをおっしゃっている。 彼女の本や、ブログや、Youtube、などで時折目にする言葉。 これについては私は100%同意している。 ひとつ前の投稿で自分軸のことを書いたけれど、似たようなことで、 『本当の自分で生きる』『本来の自分で生きる』ということについて。 本当の自分じゃない=自分を偽っている、仮面をかぶっている、ということ。 その偽りや仮面は何かというと、 幼少期から刷り込まれた様々なタイプの思考、思い込み。 そして、抑圧してきた感情。 などがあると思う。 具体的にそれは何かというと、 女はこうあるべき、長男なんだから云々、母親というものはこうあるべき、社会人としてこうあるべき、組織の一員として、普通は、一般的には、常識的に、家族とはこういうもの、愛情を注ぐとはこういう感じ、愛情を受け取るとはこういうこと、etc。。。。。 こういった大量の『普通は~』『~すべき』などの 誰が決めたか分からない謎の枠組み/制限の中で生きることを、 いつからか自分の中に課していること。 ※因みにこういったものが『セルフイメージ』をつくっている。 私ってこういう人だ、ということが顕在意識にも潜在意識にもインプットされている。言い換えると『そういう設定にしている』ということ。 そして感情面のほうの例では、 本当の自分の気持ちは「いま別にお腹減ってないなー」なんだけど、 「12時なんだからお昼を食べなくちゃ」と謎の義務感で食べる。 そうすると『本当の気持ちと違う行動をする』というギャップが生じて、 ”我慢(をして時間に自分を合わせる、他人に自分を合わせる)” という感情が発生する。 これは身体にとってはストレスになっていて、 ホルモン分泌により身体のどこかがギュッと固くなったりしている。 目に見えないけれど、自分のエネルギー領域(オーラとかチャクラとか)でも 歪みが生じている。 気づかないほどの、ささいな、「こんなことくらいなら」という事であっても、 それが365日、1日に...