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自分軸のある人を演じてみる実験

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 ”自分を持ってる人” とか ”自分がちゃんとある人” のように言われる人ってどんな人だろう。最近の言葉で言うと ”自分軸 ” のある人。 10代のころの私は ”自分の意見が言える人 ” が、そういう人のことだと思っていた。 自分の意見を言えるということは、なにかについて「私はそれについてこう思う、こう考える」と考えることができる人のことだ、と思っていたし、 その ”なにか” は、 例えば社会問題とか環境問題とか、日常にある誰かと誰かの問題とか、クラスの中で議題になることとか、いわゆる何か特定の『問題とされること』についてだ、と考えていた節があったように思う。 そして、いまの私がどう考えているかというと、10代のころとは少し変わった。広くなったというか、深くなった。 自分を持っている人(自分軸のある人)というのは、 『問題とされること』について私はどう考えるか(=自分の意見)があることもそうだけれど、もっと日々の日常の中で、 「私はこれ好き、これ嫌い」「私はこれがしたい、これはしたくない」「私は行きたい、行きたくない」 というような単にしたいのかしたくないのか、という自分の自然な欲求希望を、自分の中に持っている人が  ”自分を持っている人(自分軸のある人)”  なんじゃないかと思っている。 しかも、常にそういう欲求希望があることに、自分自身ではっきり気が付くことができていて、もっと言うと、その欲求希望に従って実際動くことができている人。 多くの人が経験ありそうなことで例えると 「あ、12時だからご飯食べなくちゃ」と思って食べる。又は、12時なのを知っていても、周りの人が食べていても「私はいまお腹減ってないから、まだ食べなくていいや」と食べるのはやめる。前者は、自分の今の状態がどうかな?と考えず又は無視して、時間や周囲の都合の方へ自分を合わせている。後者は、周囲はこうだけれど自分はどうかな?と考えて、自分の都合の方へ合わせている。 これだけ聞くと、そんな自分勝手にしていたら周りに迷惑が…、と思うかもしれない。 この例の後者の人は、我慢していない人。周囲よりも自分の方へ合わせている人。こういう人は、身体の状態も良いだろうし、ストレスも少ないだろう。ってことは、おそらく良い気分で過ごしている時が多いだろう。そうすると、自然とやさしくなれたり、寛容になれたり、細かいことにい

日常がパラダイス = 人生がパラダイス

日常の繰り返し(積み重ね)が人生 生活の繰り返し(積み重ね)が人生 だと私は思っている。 なので「人生よくしたい」「たのしい人生にしたい」「あの人の生き方あこがれる」 とか思うのであれば、日常生活をよくすること、日常生活をたのしくすること、 日常生活をパラダイスにすること。 「日常にうんざり」という気持ちを持ったままで、『楽しい』を求めて 旅行をしたり、お酒を飲んだり、環境を変えたり、人間関係を変えたりすると 「これをしている ”時だけ” は楽しい」 「これをしている ”時だけ” は日常を忘れられる」 という『一時的な快楽』になる。 そこから日常へ戻ったら、また以前と同じ日々。 例えば楽園的なところへ引っ越ししたとしても、そこの環境に慣れてきて そこがまた日常になれば、以前の自分がムクムクと出てくる。 そしてなぜかまた以前と似たような問題を抱えるようになる。 なぜか?この理由は明らか。 まずエネルギー的観点から言うと 自分そのものが何も変わっていないので、その自分の波動(周波数)は 似たような波動(周波数)のものと共振する。 引き寄せ始める、周囲に集め始める。類は友を呼ぶ、の法則と同じ。 そして脳の仕組みから言うと、 自分の潜在意識(無意識領域)のなかに溜め込んでいるものを整理していないので、 また以前の自分と同じような思考パターン、行動パターン、情緒の揺れパターンになる。 人は潜在意識(無意識領域)にストックしている膨大なデータを元にして、 見る・聞く・考える・行動する、という脳の仕組みになっているから。 『不満な今』『こうしたいけど叶ってない今』を抱えている人が、 環境を変えること、気分転換のための何かしらをすること、人間関係を変えること、 などはとっても大切なことだと思う。 変化を求めるときは私もこれらをする。 ここで間違えちゃいけないのが こういうこと ”も ” する ということ。 外側のことだけ変えればOK、ではない。 「一時的な満足でいい」という人は、外側のことだけ変えればいいと思う。 もしくは「悩みをかかえた状態の方が好き」という人も、 やはり外側のことだけ変えればいいんじゃないかと思う。 これも好みだから。 話を戻すと、 外側のこと ”も” 変えながら、内側のこと ”も ” 変える。 内側のこと=自分の中身=顕在意識と潜在意識とエネルギー領域 そうす

願うということ

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「わたしもソロモンみたいに空を飛べたらいいなあ」 なぜ?なぜ空を飛びたいの? 「いつも地面の上を歩かなきゃいけないなんて面白くないよお。すごくゆっくりだし。いろいろな所へ行くのにもすごく時間がかかる。それに見えるものも限られてる。地面の上にあるものだけしか見えなくて、つまらない」 あのねえ、サラ、君は僕の質問にちゃんと答えていないみたいだね。 「あら、答えたわよソロモン。わたしが言ったのは、空を飛びたい理由は・・・」 面白くない地面の上を歩き回るのが好きじゃないから、だろう?あのね、サラ、君は『なぜ君が空を飛びたいのか』を話したのではないんだ。君が僕に話してくれたのは『空を飛べないことを君が嫌だと思う理由は何なのか』ということだ。 「どこが違うの?」 ああ、サラ、大きな違いだ。もう一度、答えなおしてごらん。 引用 ”サラとソロモン”   エスター&ジェリー・ヒックス著 この部分を読んで、わたしは心が熱くなった。 なにかを願うとき望むとき、そうする/そうなると決めるとき、この部分はとっても大切なポイントになると思うから。 心がなんだか熱くなったということは、もしかして私も分かっていたつもりだったりとか、 できていない時があったりするのかもしれない。 なにかを願いながら、同時に、それが叶わない場合どういったことがあるか、 ということにフォーカスしていたら(それについて話したり考えたり「うわーやだ」と感じていたりしていたら)、 そっちが叶ってしまい、願っていた方は永遠に叶わない。 それが宇宙の仕組みだし、素粒子や波動の仕組みだから。 長く、強く、感情を伴って、考えたり思っていたり想像していたりしていたことが叶う。 それが自分にとって、都合が悪いことであろうが良いことであろうが、関係ない。 宇宙はシンプル。 ソロモンは上に引用したやり取りの後、もう少し会話があって、その後こう言う。 そうだ、サラ、その調子で、なぜ君が空を飛びたいのかを話してごらん。それはどんな感じがする?どういう風に感じる?それがどんな感じか僕にも感じられるように話してみてごらん。空を飛ぶことはどんな感じがする?地面の上にいることがどんな感じかとか、空を飛べないことがどういうことかについて話すのではなくて、空を飛ぶことがどんな感じがするかを、僕に話してほしいんだ。 それを聞いてサラは、もし自分が空を飛んだら

香りは装身具にもなり戦略的にも使える

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下部の ”なぜ香りなのか?” は、先日、私のホームページの調香セッションのページに補足で追記した内容。 この投稿の前いくつかにわたって書いた脳とか感情などについての 投稿にも関係しているので、 両方読んだ方はつながりが感じられると思います。 潜在意識、思考、感情、メンタルなどに、とてもとても関りがあるのです。 ーーーーー なぜ香りなのか? 味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚。このなかで嗅覚はとてもユニークな動きをします。 嗅覚以外の感覚は、それを感じると、 まずは理性・思考・分析・言語などを司る左脳へ信号が伝わります。 しかし嗅覚だけは左脳を通らず、 本能・感情・記憶・閃きなどの右脳エリアへ電気信号が直行します。 思考でアレコレ考え始める前に、潜在意識や本当の自分へ香りの信号が届くということです。 このページの上の方に「香りでできることの例」を載せていますが、マインドセットも気持ちの切替も自分軸の強化も、こういった理由の元、香りのサポートによって深い部分でそれができるわけです。 アレコレ考えず頑張らずシンプルに、ただ単に香りを嗅ぐだけでそうなる。 体の仕組みにのっかるだけなのでとても楽で簡単です。 しかもその香りは植物の香りで、しかも自分用に調合された香りであったら、 より一層「自分に届く」そして「自分と響き合う」と、私は感じています。 ※植物の香りが良くて化学合成の香りは悪い、とは一概には言えません。 使い方や使う量、個人差など様々なことのバランスで、危険性や合う合わないが変化します。 ーーーーー 服、靴、鞄、ジュエリー、お化粧、などと同等の感覚で、装身具のひとつとして香りを使うもよし。または上記の仕組みから、自分の脳に対して意図的、戦略的に香りを使うもよし。 どちらにしても、気分を変えてくれるもの、であることは間違いありません。

感情ってなんなの?

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感情 というものには、どんなものがありますか?はい、皆さんどんどん書き出してみて。 と言われたら、すごくたくさんワードが出てくると思うけれどどうでしょう。 うれしい、たのしい、おもしろい、イライラ、モヤモヤ、さみしい、ざいあくかん、 きもちいい、ふわふわする、ほんわかする、ずしっとする、ムッとする、まんぞく、 すき、きらい、なんかいや、なんかいい、等々。 じゃあ、この感情たち、それぞれどんな姿をしてますか? と言われても、見えないし物質ではないので姿はない。 姿はないけれども、絶対に存在している。自分の中から出てくる。明らかに「ある」。 感情は、エネルギーです。 電気とか電波と一緒。見えない姿形はない、けれど絶対にある。あるからネットが繋がるし、電化製品が使える。 電気エネルギー。 それで、感情。 この出てきたやつを、世の中では  ”良い感情” と ”悪い感情” 、”ポジティブ” ”ネガティブ” 、”軽い” ”重い” 、 などと分けたりするわけです。 本当は良いも悪いもないのですが、ここではその話は置いておき、 どういう時に感情が出てくるのか?を書いてみます。 感情が出現する前には、必ず、なにかを見る/聞く/体験する、などがありますよね。 例えば 「わあ!それいい!!」という嬉しい系の感情出現の前には、 「ねえ、今度この温泉宿に泊まってみようと思うんだけどどう?」 という提案があったり。 「うっわー、なんなのソレ」というテンション下がる系の感情出現の前には、 自分が全然好きではない出来事を見たり、発言を聞いたり。 でも、どんなに自分が良いと思う提案内容でも、嫌悪感を感じる出来事でも、 人によっては全然良いと思わなかったり、むしろ嫌いだったり、無反応だったりします。 何故、人によって違うのかというと、 判断基準が違うから。 これは良い、これはダメ、ここまでならOK、普通こうでしょ、当たり前じゃん などの判断です。 みんな誰でも、その人の中での良い悪いの線引きだったり、当たり前の枠が決まっている。 その線を越えてくる人や出来事と出会うと、 「ちょっと!!なんなのアレ!?ありえなくない?」とカチンときたりするわけです。 「ありえなくない?」という言葉を聞いていた隣の人は、 「え?別にいいんじゃないの?」という反応の場合もある。 ということで、 感情が発動する前には、必ず、

【補足】重い方へ引っ張られることの何がだめなのか?

 ひとつ前の投稿の補足です。質問が飛んできました。 「気分や感情が重い方へ引っ張られると、なにがだめなのか?」 まずは、 良いとか悪いとかはないです。 重い方が好きだったり、そこに浸りたい気分の時ならばそうしたらいいし、 軽い方が好きな人はそうしたらいい。 単なる好みです。 で、 私は軽い方が好きなので、自分も軽くいたいし、自分の周囲は軽い人々でいてほしい。 なので、重さを取る方法、軽さをキープする方法などを教えているわけです。 突然ですが、私の活動の目的は『地球平和』です。 私の想う地球平和とは、 個人個人が精神的にも体的にも自由で、それぞれが好きなことをしていて、 それぞれが自分の満足感の中に生きていて、それぞれ尊重しあっていて、 それぞれ感謝の気持ちを持って、地球と共に生きている 言葉で簡単に言うとこんな感じ。 それで、 この地球平和の状態になるためには ”類は友を呼ぶ” の法則を大活用することで、 私一人からでも、そこのあなた一人からでも、可能なのです。 波動とか量子力学のことを知っている人ならば(学者レベルでなくて表面的に知っている感じでも全然OK) 聞いたことがあると思いますが、 類は友を呼ぶ、とか、似た者同士が集まる、とか、一緒にいると顔が似てくる、とか、共振とか共鳴とか、 そういったことは、なぜそうなるのかを説明できるのです。 私一人が軽い波動(エネルギーとか気とか周波数とか)になると、どうなるか? 大雑把に言うと、 私が軽い波動を発していると、類友の法則によって、 私と同じような波動の人・物・出来事が私の周りに集まってくる/起きてくる。 私一人が変化したら、私の周りも似たようなエネルギーになる。 誰かがものすごく楽しそうに大笑いしていると、 内容を知らなくてもこっちもつられて笑えてきたり、楽しくなったりする。 それと同じことです。 自分もそういう方が好きだな~、という人が講座を受講してくれて、 その人が軽い波動に変化していくと、 その人の周囲でも上に書いたことと同じようなことが起きてくる。 で、その人の周囲環境がそうなっていくので、その人自身はますます居心地がよくなって、 ますます軽い波動になっていく。 そして、その人の周囲の誰かも誰かもその波動になっていくので、 そのまた周囲もそうなっていく。 こういった連鎖が起きてくるので、 日本各地、地球のい

重い方へ引っ張られるのが通常モード

地球にいる限り、重力というものがあって、重たいもの引っ張られる。 ボーっとしていようが、意識していようが、引っ張られる。 でも、ひとつ。 重力からは絶対的に自由なものがある。 自由というのは、自分の意図でどうにでも変えられる、という意味。 それは、私たちの意識。 (ここでは、感情も思考も含めて、あえて意識と表現します) ただし、意識も同じく、放っておいたら重い方へ引っ張られるので、 意図して引っ張られないようにすることが大切。 ネガティブとされるものが重たい方向。 イライラ、モヤモヤ、違和感、恐怖感、引っ掛かり、我慢、 不快感、不満感、罪悪感 こういったものがすべて重たい方向の感情。 放っておいたら、どんどんどんどんどんどん、 この重たい感情の中へ巻き込まれ続け、 ぐるぐるぐるぐる考え続ける。 例えそこへ蓋をして見えないようにしたとしても、それは一時的なこと。 押し込められたそれらは、いつかまた必ず出てくる。 放っておいたらそうなるので、 自分で意図的に、コントロールして、 巻き込まれ続けない自分でいられるようになると、すごく快適に生きられると思っている。 その方法を私は講座で教えています。 これまでも、これからも、 日本語でニュースになっているものも、なっていないものも、 地球ではいろいろなことが起きているし、 今も進行形なものもあるし、これからも起きる。 そんな中で、 自分が自分であること。 自分を保っていられること。 しかも一時的に無理やりそうするのではなく、 自然な形で、気楽にそれができていること。Keepできていること。 それはすごく大切なことだと私は思う。 特に大人は。 身近に子どもたちがいる環境に居る大人は、さらに特に。 例えば、 重たいものを持ちながら、重たいものに引っ張られ続けながら、 好きなことをしたり、希望を叶えるために動いたりするのは、 効率が悪い。 心も体もとても元気な時などに一時的にはできるかもしれないけれど、 やはり一時的だし、柱が弱いというか、ちょっと何かあったら倒れる系。 見えないようにしたりするのではなく、 日々ちょこちょこ掃除をして澱みや曇りを取りながら、 身軽な状態で歩んでいくほうが私は好き。 そして、そういう人が周囲にいる環境が私は好きなので、 講座をして教えているし、学んで実践してくれる人が増えれば増えるほど 嬉しくてたま

中心にあるもの

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今まで割と「自分の芯をしっかりさせる」「土台をしっかりさせる」 みたいな言い方をすることが多かった。 この間あることを考えながらノートに書いた言葉があって、 その言葉が最近の自分的にとてもしっくりきた。 「自分のなかの核」 この核のイメージは、ギュー――――ッと凝縮していて、すごくパワフルで、 エネルギーがあって、生命の源みたいな感じ。 自分の可能性を制限する感情や思考のヨドミは、 日常的にメンテしながらどんどん取り去って、どんどんクリアになって、 核のエネルギーを覆うものなく生きよう。

戦いとジェットコースター

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戦うことが好きな人 戦うことが嫌いな人 戦っている人を見るのが好きな人 戦いをつくることが好きな人 戦いによってお金を儲けるのが好きな人 戦うことが好きな人を撮影する人 戦うことが嫌いな人を撮影する人 戦っている人を見て楽しむ人を撮影する人 戦いをつくった人を撮影する人 戦いによってお金を儲けている人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人 ジェットコースターに乗っている人を見るのが好きな人 ジェットコースターをつくることが好きな人 ジェットコースターに乗ってもらいお金を儲けるのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが好きな人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人を撮影する人 ジェットコースターに乗っている人を見ている人を撮影する人 ジェットコースターをつくった人を撮影する人 ジェットコースターによってお金を儲けている人を撮影する人 どのタイプを見かけることが多いか? 見かけないタイプはどれか? なぜそのタイプをよく見かけるのか? なぜそのタイプは見かけないのか?

原因と結果

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因果応報、すべて自分が源、原因と結果の法則、思考の現実化 言い方はいろいろあるけれど「起こったことには全て原因があるよ」という意味。 自分の身や自分の目の前に起こったことは、すべて自分が起点になっている。 誰かのせいでも、何かのせいでもない。 自分は無力な被害者ではない。 「これを食べたらお腹をこわした」 みたいな日常のささいなことも、その食べ物のせいではないし、 病気や事故であっても同じく。 「私は被害者」なのではない。 って、話していると 自分を責めなければいけないような気分になる人がいるかもしれない。 決して自分を責めるのではないのだけれど、 ここのところの説明をする時にしっくりくる言葉が いままでイマイチ見つかっていなかった。が、 最近、発見! 「自分を責めてくださいと言っているのではなく、 自分がつくった現実だ、ということを受け入れてください、 ということです。」 これ↑は、ミナミAアシュタールさんの話を聞いていて出てきたフレーズです。 「自分のせいなんだ」と落ち込んだり責めたりするのではなく、ただ単に、 「あ、私こんな現実つくってる」と、まずは受け入れる。 そこで終わらずそのあとが大切で、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」と考える。 加えて、 「私は本当はどうだったら心地いいんだっけ?」と考える。 「あーやばいやばい私こんな風にしちゃった」と、 グルグル落ちる方向に巻き込まれたままでいないこと。 いろいろ考えるのは当然なのだけれど、 考えるときの方向性、矢印の向きを間違えないこと。 そして忘れてはいけないのは、 「私がこの現実をつくってしまった」ということは、 「私は自分で現実をつくりだせる」ということ。 ヒーリング講座の受講生さんたちは 「現実は自分がつくっている」ということの意味や仕組みは知っているはず (覚えていなかったらテキストを読み返してネ)。 これは宗教的な考えでも、スピリチュアル的な考えでも、SF的な考えでもなく、 この世の中、この宇宙の仕組み。 いまの地球の物理学で分かっているところでいうと、量子力学の話。 私は、自分に起こる出来事を見て 自分の考えていること(考えていたこと)を知る、という時もある。 因みに、ヒーリング講座受講生さんたちは、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」の部分を 無意識下の領域からも探し出せる

ネットワークビジネス

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私はネットワークビジネス(MLM)という仕組みに対しての悪い印象は持っていない。 むしろ、 ネットワーク系の製品は質の高いものが流通していることが多い、 という印象を持っている。 私自身もネットワークの会社の製品をいくつか愛用しているし、 なかには20年くらい愛用しているものもある。 私と同じようなタイプの人もたくさんいると思うし、 ネットワークと聞いた瞬間に壁をつくるタイプの人もたくさんいるように思う。 壁を作る系の人の中には、ネットワークビジネスとねずみ講と悪徳商法などを 頭のなかでごちゃまぜにしているタイプもいるように思う。 そういう私でもネットワークなら何でも良いとは全く思っていない。 ゼロか100か、白か黒か、ではなく、様々な側面があるから。 その会社の質(理念、仕組みなど)、製品の質、 その製品を仕事として広めている人の質、 などによって、印象は大きく変わるし、使いたいかどうかも変わるし、 長く愛用するかどうかも変わる。 いくら質が良くても、その時の自分に合うかどうか、欲しいと思うかどうか、は、 また別の話だし。 ネットワークの製品は口コミで伝わって広がっていくものなので、 たまたま自分が触れ合った人によって、大きく印象が変わると思う。 私と縁があったものは、変な人はいなかったし、 買い込みをしなくちゃいけないような仕組みの会社もなかった。 (買い込みしている人は見たことがある。家の中がすごいことになっていてびっくりした。私は関わったことのない会社。) 例えば、自動車。 運転する人の質によっては殺人を起こすことも、物損を起こすことも可能。 自動車自体の質によっては、運転手の腕がよくても問題が起こる。 自動車メーカーの質によっては、コストを優先するあまり安全性に疑問が残ったり、 勤務環境が劣悪であったりする。 自動車=殺人兵器 にもなりえるし、 自動車=徒歩ではいけないいろんなところへ連れて行ってくれる有難い存在 にもなりえる。 ネットワークビジネスだって同じ話。 使い方次第、選び方次第、人次第。 なぜこのブログを書くことになったかというと、以下。 ある製品を一緒に伝える人を探しているから話を聞いて欲しい、とインスタdmが届いた。 知らない人だったが、きちんと自己紹介があったことと、なぜ私になのか、 自分はなぜそれをしているのか、などを読み、話を聞いてみる

ともだち100人の歌

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 「一年生になったら」 作詞:まどみちお 作曲:山本直純 ともだち100人できるかな? という歌。初めて聴いたのがいつだったのか全く覚えていないけれど、 幼稚園か小学校低学年の頃なんだと思う。 少し前に、頭の中に「ともだちの人数」についてのいろいろが やけに巡っていたことがあって、この歌を思い出した。 今の私が思うことは、友達がたくさんいなくたっていいじゃん、という考え。 そもそも友達って何だろう、と言う話になっちゃうんだけれど。 どこからが友達で、知人で、仲間で、なんだろう。 まあとにかく、 昔の私はどう思っていたんだろう?あんまり明確に覚えていないけれど、 いなくてもいい、とは思っていなかった気がする。 友達人数が多いから良い、とか、多い方が幸せ、というような雰囲気の中には 居た気がする。 ともだち100人できるかな、の歌を聴きまくっていたとすると、 おそらく脳みその中は「たくさんいた方が楽しそう/幸せそう/良さそう」という 状態になっているんじゃないか。 ちょっと言葉は強いけれど洗脳状態みたいな。 私流に言うと「思い込みが作られている状態」みたいな。 もしそういう状態になっていたとすると、 いざ小学校に入学して友達と呼べる人ができなかった場合、 親は「友達ができなくて心配、不安、大丈夫か」となる人が多いだろうし、 それが子どもに伝わって、子ども自身も「友達ができないとダメなんだ」となって。 たくさんの人と一緒にいることが好きな人と、 一人でいることが好きな人と、たった一人の気の合う人とだけ居たい人と、 みんなの中にいたいけれどちょっと離れたとこに居るのが好きな人と、 時と場合による人と、 人によってそれはそれは様々だと思う。 それに、 小学1年生のクラス分けの中に気の合う人がたまたま居ない場合もある。 いきなり気の合う人だらけの場合もある。 高校2年生くらいになって、一人だけ気の合う人が見つかる場合もある。 何かで読んだ内容で「コミュニケーション障害とされている人は、障害なのではなく、 コミュニケーションを取れる/取りたい相手がたまたま今まで近くにいなかっただけ」 とあって私は共感した。 コミュニケーションの取り方だって人それぞれだから。 ”まあまあ誰とでもなんとなく当たり障りなくコミュニケーションを取れる人”  がいわゆる「普通の人」で、それができない人は「

アバター

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私は映画 「AVATAR 」(2009年 ジェームス・キャメロン監督)がとても好き。 人と話しているときにそれを伝えたら、その人はこんな感じのことを言った。 因みにその人は、この映画を観たことがないという人。 「え、、、あの映画って、人間がなにかに繋がれて人間でなくなって、戦って、みたいなやつでしょ」 その言葉の中には『りえさんがそんなの好きなんて意外なんだけど』という雰囲気があったように感じた。 それを聞いて私は「あ!」と思った。 「私が観て注目していたAVATARの世界と、この人が思っているAVATARの世界が違う」 ということが分かった。 例えば。 ピラミッド型のモノがあるとして、 私はそれを真上から見て「正方形だ」と思っている。 花子さんはそれを真横から見て「三角形だ」と思っている。 単に見ている側面が違うだけ。 それと同じようなことが今回のAVATAR好き/嫌い問題である。 私はAVATARの映画の何もかもが好きなわけではなく、何がすごく好きだったかというと、 パンドラという星に住むナヴィという民族たちの生き方。 生き方というか、在り方というか。 自分たち以外の生命体(植物も動物もすべて)との関係性が好きだった。 リスペクトしあい、自分たちもすべての循環の中の一部であることを知っていて、 それを楽しんでいて。 そして陽の沈んだ後のパンドラの森は、ぞわっとするほど美しかった。 今でもあの森を想うと、全身がぞわっとする。 言葉にするとうまく言えないが、パンドラの森の世界観が好きだった。 人間が何かに繋がれて、脳の中でアバターとして別世界を体験し、戦って、 みたいなことには、あまり注目していなかったので、その辺は私にとっては 補足映像?みたいな感じだった。 「また、人間はこうやって占領して戦って、ほんとバカ」とは思ったけど、 私の心はそこはサッと通り抜けて、ナヴィの森の世界へ飛び立っていた。 ということで、私がこの映画の何が好きなのか、を相手に伝えた。 私が好きだと思ったこの世界観は、その人も好きそうな気がする。 因みに2022年公開のAVATAR2は、全体的にあまり心躍らなかった。 極めつけは映画の最後の最後。 ラストのシーンのメッセージにドン引きし、映画館を後にした。 映像はとても美しかったです。 という感想を私は持った。 AVATARという英単語の語源は

「祈り」ながらあなたは何を想像しているか?

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以前インスタストーリーズに載せたところ、割と反応があったので、 こちらにも書き残します。 祈り、願い には、タイプというか方向性がある。 それを祈り/願いながら、自分は何を想像しているか? それがポイントのひとつ。 「転びませんように」 と祈り/願いながら、何を想像してる? 転んで痛がっている状況を想像してない? そして「転んだらヤバいわー」と怖いと思っていない? 宇宙は、この想像の通り叶えてくれる。 「オッケー! ”転んでる自分” のイメージね。叶えとくねー!」 となる。 じゃあ、例えば。 「軽やかに走っていけますように」 と願ったとしたら、何を想像する? 「オッケー!そのイメージの通りに叶えるね!」 となる。 わたしのメニューの中にある『セルフヒーリング講座』では、 こういったことも基本知識の一つとして教えています。 思考、イメージ、の方向性を間違えると、全然望まない出来事が起こる。 自分に対しても、だし、他者に対しても、世の中に対しても、同じく。 (でも脳はそれを『間違い』だと思っていないのがポイント) 祈りとか願い、 と言うと何か大きな出来事などを思うかもしれないが、 人は誰でも日々ずっとずっと祈り/願い続けている。 ご飯食べたいなー もう寝たいなー 行きたくないなー これ全部祈りであり願いですね。 それらを、正しくスムーズに、軽やかにしなやかに、叶える方法がある。 些細なことでも大きなことでも、同じ方法を使う。 セルフヒーリング講座詳細は こちら (わたしのHPに飛びます) このことをストーリーズに書くきっかけになったのは、 私の尊敬する一人であるさとうみつろうさんのYoutube動画。 それは こちら 。

異世界体験

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最近のいつもの自分とは違う行動をしてみた日があった。 そうしたら、その場に集まっていた人々は、最近の自分の周囲にいるような人々とは 違うタイプの人々で、 話題の内容も違うし、盛り上がるポイントも違うし、興味の方向性も違うし、 知識のベースも違うし、情報源も違うし、 とにかくいろいろなことが最近の私とは異なっていて、 「ほお~」「ふーーーん」 という感じだった。 生きている世界が違う、というのはこういう感じなんだと、体感できた。 それで。 ただ単に「へえ~違うんだな~」で終わらない自分の心の中に気づいた。 なんだかモヤモヤがその後数時間続いたことで、 「こうであるべき」が自分の中にあることに気づけた。 それはセルフヒーリングで手放せたので、また一皮むけた。 おかげさまって、こういうこと。ありがとう、この体験、この登場人物。 セルフヒーリングができるって、本当に便利! 実は、上記のような体験をしたちょうど数日前に、似たような話を聞いたばかりだった。 私にその話をしてくれた人は、 地域の中である役割の担当になったことで、 自分の日常では出会わないタイプの人々と一緒に活動することとなった。 なにかの話し合いの時も、なにかのイベントの時も、その延長の打ち上げ的な時も、 とにかくあらゆる場面で「違い」を体感した。 というような内容だった。 それを聞いたばかりで、私も同じような体験をすることになった。 自分の中のどこかで、異世界体験してみたい、と思っていたのかもしれないし、 又は、自分の制限をどんどん外していきたい、と思っていたから、 その制限に気づく状況がこのカタチで用意されたのかもしれない。 思い込みとは、自分のなかでつくりあげている思考の枠/壁/制限のこと。 例えば、朝食は食べるべき、とか、男は〇〇であるべき、とか、何歳までに△△、とか。 思い込んでいる状態なので、それが当たり前だと思っていて、 それが思い込みだとか制限だとかは、なかなか気づかない。 他人の話を聞いたりすることが刺激となって、ハッと気づくことも多いと思う。 なので、ありがとう、なのであります。

催眠術をとく

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このところ、少し前のことであっても、 ものすごーーーーーーーく前のことのように感じる。 例えば1ケ月前の出来事を、1年以上前、あるいはもっと前、のように感じる。 以前から私はこの傾向はあったのだけれど、最近特に強い。 私の中には36兆個くらいの細胞たちが生きていて、その細胞たちは3カ月くらいで すべて入れ替わるのだそうだ。 だから3カ月前の私と今の私では全くの別人と言っても良いかもしれない。 数で言ったら36兆個分も違っているのだから。 この「別人に感じる感覚」についても、私は上に書いた年月のことと同じように感じていて、 1年前の自分は、今の自分とは完璧別人だと思うし、 3カ月前も別人だと思う。1カ月前はまあまあ違うかな、くらい。 別人に感じる、という意味は多重人格的ということではなくて、 なんというか、 ステージが違うというか、生きているステージ?場所?空間?次元?が違うように思う。 なんかそんな感じなのであります。 いまこれを書いていて、ふわっと感じたことがあって、 じゃあだからと言って、時間が過ぎるのが常に猛スピードに速いと思っているか、 と言ったら、そうでもない。 例えば先ほど(ふわっと感じたこと、と上記に書いた瞬間)、 時間がものすご~くゆっくり揺らめいている、うごめいている、くらいの感じに 感じた瞬間があった。 宇宙には時間なんてなくて、それはただ人間が地球でつくった概念であって洗脳であって、 「時間は伸び縮みする」というのが真実なんだろうなあ、と思う。 洗脳って、催眠術みたいなものだと思うが、 きっと文明社会に生きる人間はすべて、催眠術にかかった状態で生きているんじゃないか。 かかり具合とかが人によって違うっぽいけど。 私は催眠がとけた状態がどんな自分で、どんな地球になるのか、 見てみたい。

瞬間の次の瞬間

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 過去も未来も無い、あるのは今だけ。 と聞いても意味がうまくつかめない。分かるような分からないようなフワッとした感じ。 私も肌感覚でつかんでいる感じ。 頭(脳)で理解しているか、と言われると、していないような気がする。 ただし、日々、その肌感覚がはっきりしてきている感じはある。 多分それがそのうち、頭でも理解が深まるのではないだろうか? いまこの瞬間が、次の瞬間をつくっている。 いまこの瞬間の私の感情が、次の瞬間の現実をつくりだしている。 いまこの瞬間の私の感情エネルギー(素粒子)は放たれ、 周囲の素粒子にぶつかって、私の元へ跳ね返ってくる。 いまこの瞬間が次の瞬間をつくる。 その連続が「未来」をつくる。 だから、 いまこの瞬間の自分の在り方を変化させれば、 「未来」も変化する。 自動操縦のままなんとなく進めば、いまと同じ。

わたしの人生で100%決まっていること

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 今日は新月。新月は願い事ノートを書く日としている。 「今日は願い事を書く日だな~」とか思っていたら、こんなことを思いました。 以下は今日のインスタグラム投稿にも書いたものです。 ・・・ 私の人生で 100% 決まっていることは、ただ1つのことのみ。「いつか死ぬ」ということ。 そのいつかが世に言われる『平均寿命の頃』だとは限らない。 これを投稿する前かもしれないし、明後日かもしれない。 私は割と子どもの頃から、こんなふうな事を考えていたと思う。 病気だったわけでもなく、高齢だったわけでもないのに、ある日突然死ぬ、遺体が無く顔を見たのは生きていた時が最後 そういう経験を子どもの頃にしていたり、その後も、似たような経験をした人が身近に何人かいた。 この経験のおかげで、なんとなくいつも「死とか終わり」を意識していることができている。 いつも考えているわけではなくて、信念の1つになっているみたいな感じだと思う。 そんな風なことが、信念というか軸の1つにあって、 そのおかげで云々 … と話しが続いていくわけであります。 今日は新月だな〜 願いごとノートの日だな〜 最近またあることについて気持ちが盛り上がってきているな〜 やっぱり私はそれがしたいんだな〜 とか思っていたら、このような投稿になりました。 🌝 セルフヒーリング講座の受講生のみなさん、新月エネルギーを活用して願いごとリスト更新してくださいね、その時の重要キーポイントも忘れずに。私も書きます 💫 ・・・ インスタには書いていないけれど、追加でここに書きますが、 上の経験にある『突然死ぬ』という人たちには共通点があります。 亡くなった人の共通点ではなくて、残された側の共通点は全員女性。亡くなった人たちは彼女たちの夫だった人々です。 みんな割と若い年齢の時にパートナーを亡くした。 なぜか私は子供の頃から、そういう女性たちが身近に何人かいました。 身近だったので、その女性たちの生き方を見て感じて知るという経験もしました。 久しぶりにこのことに意識を向けました。 死の方面に意識を向けたのではなく、自分がどう生きるか、の方向に意識を向けました。 やりたいことをやろう、行きたいところへいこう、会いたい人に会おう、 自分の時間を何に使うか、自分で決めよう。 したい体験をしよう!

不要物を出せる身体でいること(精神的にも)

「まず溜めているものを出すこと、不要なものはなるべく入れないこと、良いものをいれること、不要物を出せる自分でいること」 これ、まるで身体の健康維持のための言葉のようですが、意識や感情も全く同じだなあと思っています。 私は意識や感情についての講座も開いているのですが、 その説明文言をなんとなく書き換えたくなり、PCに向かっていて、そう気づきました。 以下がその文言です。 ・・・・ 誰でもが無意識化にためこんでいるものを、先ずは解放してあげること。 講座内で学ぶことの一つです。 ここでは目に見えないエネルギー的なもののことを言っていますが、身体と同じです。 身体に良い、と言われる栄養をいくらたくさん入れてあげても、 それと同時に、負担になるものを入れていたり、 これまで溜め込んでいる不要物を出さないことには、意味がない。 先ずは、出す、とても大切なことだと思っています。 出す(=解放する)作業というのは、おそらく私は一生し続けるのだろうと思います。 日常を生きている限り、望んでいなくても、入ってくるものはあります。 入ってくるのを恐れるのではなく、入ってきたことに気づき、それを出せる自分でいたら良い。 繰り返しますが、身体と同じ。解毒できる身体でいたら良いのです。 そして、自分にとっての不要物をなるべく避ける術や知識を学び、実行することで、 解毒しなければいけないような毒は、身の回りから減っていきます。 こういう事というのは、言い方次第で、世に言うスピリチュアルな雰囲気にもなるし、 違うものにもなりますが、 言いたいことは一つです。 仕組みを知って実行することで、自分の人生を自分で動かすことができる、と私は信じています。   次の言葉は、私が25歳頃からの愛読書の著者である浅見帆帆子さんの言葉です。 ( 言葉そのままではないですが意味は同じです) 『 ”そのままのあなたで良い”   ”変わらなくて良い” というのは、素のあなたのことである 変わった方がよいのは、 ”いろいろとたくさんくっつけているあなた” 、である 』   私はこの講座内容を友人から学びました。その友人とは20年くらいの付き合いです。 しょっちゅう会う関係ではないけれど、彼女の人生の変化はしっかり見ています。 学んだ時「これは絶対みんな知っていた方がいい!」と強く感じたのを覚えています。 それは、感覚的

[受講者募集]4月21日(木)点描曼荼羅画の描き方講座

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受講者さんを募集中です。 この日に開催リクエストをいただきました。一緒に受けたい方を募集しています。 あと3名様承れます(4/7時点)。 応募、問い合わせは、ウェブサイト予約ページよりお願いいたします。 こちら 今回開催する講座はこのようなものです ↓↓ 日時:  2022年 4月21日(木)10:00~18:00 場所: 静岡県浜松市中区にて(詳細は問合せ後にお知らせします) ■宙を奏でる点描曼荼羅画  ファースト(基本・基礎・入門)講座 基本から作画、展開、曼荼羅画概要をわかりやすく解説。 宙を奏でる点描曼荼羅画を一人で下図から描けるようになります。 ご希望の方は、講座修了後に次のステップ(ファースト講座→セカンド講座)へ進むことができます。 1名様より受講いただけます。   [対面] 時間 約6時間 × 1回 または 約3時間 × 2回 料金 13,200円 (テキスト代4000円、レッスン、修了証、レンタル専用文具一式、消費税、 込み)    ※出張講座は別途出張費をいただきます   宙を奏でる点描曼荼羅画とは、私の描いている点描曼荼羅画の種類です。 描くことは、楽しかったり感性が刺激されることはもちろんのこと、 直感力、ものごとを多角的に見る力、自分を俯瞰する力、なども養われ、 自分を整える、ということができるようになると感じています。 詳しくはこちらをご覧ください。 こちら 準備の関係で、なるべく早めにお申し込みいただけると助かります。 よろしくお願いいたします。 問合せ・申込は こちら