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8月, 2023の投稿を表示しています

ふと我に返る

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 なぜ? 「という問いから、すべてが始まる気がするんだよね。」 という話を友人とメッセージしあった。 友人は、次のように言っていた。 「なぜ? その先にある景色を見たいのかもしれない。 枠を壊して 新たに再構する、みたいな。」 疑問を持たなければ、そのまま自動運転的に進んでいく。 疑問を持った瞬間に、その自動運転は動きを変更し、一時停止する。 そして何をするだろう? 次の行先を考える? 進む方向を考える? ふと我に返って周りを見渡してみる? 過去たどってきた道のりを見返してみる? これを書いていて思ったが、 なぜ? それが湧き出た瞬間に、ふと我に返る、のではないかな。 我に返る。 この言葉も深いネ。

食事療法のイロハ

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 前回、食事情のことについて書いたが、 いまは本でもSNSでもYoutubeでもBlogでも情報を取ろうと思えばいくらでもある。 日本語以外の言語の分かる人は、日本で言われている以外の情報も取れる。 私は20歳代前半からこういったことを学び始めたので、 当時は、本を読むか、有料セミナーに参加するか、 スポンサー無しで有志で発行されている新聞や雑誌を読むか、などが情報を得るツールだった。 さまざまたくさん読んだり聞いたりしてきた。お金も時間もたくさん使った。 わたしの尊敬する一人である、うつみん先生が、有料級動画をUPしているので紹介。 Youtubeで無料です。 食事情、実際はどうで、じゃあどうしたらいいのか、なにを選んだらいいのか、 自分にはなにが合っているのか、など、分かりやすく簡単にお話してくれています。 シリーズものなのでいくつもあるんだけど、とりあえずコレを。 食事療法のイロハ

アルバニアとミラノと日本の事情

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ミラノに住んでいた時、いろんな国の人と話す機会があった。 ある日、バス停でバスを待っていたとき。 その時わたしは、日本人の友達と二人でいたので、日本語で話をしていた。 バス停にはもう一人、バスを待っている男性がいて、わたしたちに話しかけてきた。 「いま話しているのはどこの国の言葉ですか?」と質問された。 日本語だと答えて、そこからお互いが何故ミラノに住んでいるのかを少し話した。 その男性はアルバニア(うろ覚えだが確かそのあたりの地域)の出身の方で、 単身赴任でミラノに働きにきているとのことだった。 どういういきさつだったか覚えていないけれど、そこから食べ物の話になって、 男性は、故郷アルバニアの食べ物がとてもおいしいこと、野菜もお肉も生命エネルギーにあふれていること、 新鮮なものが手に入ることが当たり前だったこと、野菜への農薬、お肉への投薬など ほとんど無しに育つものが手に入ること、などを教えてくれた。 そして同時に、ミラノの食材のことを強く批判していた。お肉も薬で膨らませていたり、 農薬も使っていたり、ぜんぜん新鮮じゃなくて 云々。 私はそれを聞きながら、こう思った。 「このおじさん、わたしが今ここで日本の現状を伝えたら卒倒するんじゃないかな。 実際日本に来て、普通にその辺で売られているものがどんなものか知ったら、 目から鱗どころか、肩から首が落ちる勢いなんじゃないかな」 日本で許可されている農薬使用量や化学肥料、動物への投薬や育てる環境のことや動物が食べる飼料のこと、 イタリアを含むEUで許可されているそれらの種類や量のこと、 私は両方とも知っていたので、はっきり言ってイタリアに住むようになったときに すごく安心した面がある。普通の庶民のスーパーで、ボーっと何も考えずに食材を 買ったとしても、日本の数十倍(最低でも10倍)は安全、と知っていたから。 そして、知識として知っている状態だっただけのそれが、 日を追うごとに、体で感じるようになった。 特に舌、味覚。そして、肌感覚というか、目に見えないんだけれどエネルギー的に感じるもの。 アルバニアの男性が言うところの「食べ物から感じる生命エネルギー」とか 作り手の愛情のエネルギーとか、そういったものも以前よりもどんどん感じるようになっていった。 このバス停での数分、 日本の庶民のスーパーで買い物をしていた私が感じていた

「祈り」ながらあなたは何を想像しているか?

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以前インスタストーリーズに載せたところ、割と反応があったので、 こちらにも書き残します。 祈り、願い には、タイプというか方向性がある。 それを祈り/願いながら、自分は何を想像しているか? それがポイントのひとつ。 「転びませんように」 と祈り/願いながら、何を想像してる? 転んで痛がっている状況を想像してない? そして「転んだらヤバいわー」と怖いと思っていない? 宇宙は、この想像の通り叶えてくれる。 「オッケー! ”転んでる自分” のイメージね。叶えとくねー!」 となる。 じゃあ、例えば。 「軽やかに走っていけますように」 と願ったとしたら、何を想像する? 「オッケー!そのイメージの通りに叶えるね!」 となる。 わたしのメニューの中にある『セルフヒーリング講座』では、 こういったことも基本知識の一つとして教えています。 思考、イメージ、の方向性を間違えると、全然望まない出来事が起こる。 自分に対しても、だし、他者に対しても、世の中に対しても、同じく。 (でも脳はそれを『間違い』だと思っていないのがポイント) 祈りとか願い、 と言うと何か大きな出来事などを思うかもしれないが、 人は誰でも日々ずっとずっと祈り/願い続けている。 ご飯食べたいなー もう寝たいなー 行きたくないなー これ全部祈りであり願いですね。 それらを、正しくスムーズに、軽やかにしなやかに、叶える方法がある。 些細なことでも大きなことでも、同じ方法を使う。 セルフヒーリング講座詳細は こちら (わたしのHPに飛びます) このことをストーリーズに書くきっかけになったのは、 私の尊敬する一人であるさとうみつろうさんのYoutube動画。 それは こちら 。

異世界体験

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最近のいつもの自分とは違う行動をしてみた日があった。 そうしたら、その場に集まっていた人々は、最近の自分の周囲にいるような人々とは 違うタイプの人々で、 話題の内容も違うし、盛り上がるポイントも違うし、興味の方向性も違うし、 知識のベースも違うし、情報源も違うし、 とにかくいろいろなことが最近の私とは異なっていて、 「ほお~」「ふーーーん」 という感じだった。 生きている世界が違う、というのはこういう感じなんだと、体感できた。 それで。 ただ単に「へえ~違うんだな~」で終わらない自分の心の中に気づいた。 なんだかモヤモヤがその後数時間続いたことで、 「こうであるべき」が自分の中にあることに気づけた。 それはセルフヒーリングで手放せたので、また一皮むけた。 おかげさまって、こういうこと。ありがとう、この体験、この登場人物。 セルフヒーリングができるって、本当に便利! 実は、上記のような体験をしたちょうど数日前に、似たような話を聞いたばかりだった。 私にその話をしてくれた人は、 地域の中である役割の担当になったことで、 自分の日常では出会わないタイプの人々と一緒に活動することとなった。 なにかの話し合いの時も、なにかのイベントの時も、その延長の打ち上げ的な時も、 とにかくあらゆる場面で「違い」を体感した。 というような内容だった。 それを聞いたばかりで、私も同じような体験をすることになった。 自分の中のどこかで、異世界体験してみたい、と思っていたのかもしれないし、 又は、自分の制限をどんどん外していきたい、と思っていたから、 その制限に気づく状況がこのカタチで用意されたのかもしれない。 思い込みとは、自分のなかでつくりあげている思考の枠/壁/制限のこと。 例えば、朝食は食べるべき、とか、男は〇〇であるべき、とか、何歳までに△△、とか。 思い込んでいる状態なので、それが当たり前だと思っていて、 それが思い込みだとか制限だとかは、なかなか気づかない。 他人の話を聞いたりすることが刺激となって、ハッと気づくことも多いと思う。 なので、ありがとう、なのであります。

家族だから、家族なのに。

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親だから、子だから、兄弟だから、家族だから。 親なのに、子なのに、兄弟なのに、家族なのに。 「だから」「なのに」の後には、例えばこんな言葉がつくことが多いだろう。 仲良くしなくてはいけない/仲良くするのが当然。 会わなくてはいけない/会うのが当然。 助け合わなくてはいけない/助け合うのが当然。 面倒をみなくてはいけない/面倒をみるのが当然。 私はこれについては、こうするべきとは全く思っていない。 自然にそうできる人もいるし、我慢して努力してそうしている人たちもいるし、 するのが当たり前なんだと思い込んでしている人もいる。 全然そんな風にかかわりたくなくて離れている人もいる。 血が繋がっていようが、育ての親だろうが、一個人と一個人なのだから、 性格やタイプなどが違っていて、人として合わないとか、あまり好きになれない、 ということだってあると思う。 長い間一緒に時間を過ごすことで、お互い「慣れている」ということはあるだろう。 でも、それと、好きかどうかとか、合うか合わないか、とかは別。 それとか、 前までは気も合っていたけれど、なんだか合わなくなってしまい距離が空いている、 ということだって大いにあると思う。 私は、友人関係と同じように捉えたら良いと思うけれど、 「家族だから」という言葉に囚われの身となっていると、 「そうは言っても家族だし、、、」となる。 家族だろうが誰だろうが、まずは、人と人である。 自分とは異なる、人。自分ではない人、他人。別人。 その言い方に冷たさを感じるならば「他者」と言ってもいい。

催眠術をとく

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このところ、少し前のことであっても、 ものすごーーーーーーーく前のことのように感じる。 例えば1ケ月前の出来事を、1年以上前、あるいはもっと前、のように感じる。 以前から私はこの傾向はあったのだけれど、最近特に強い。 私の中には36兆個くらいの細胞たちが生きていて、その細胞たちは3カ月くらいで すべて入れ替わるのだそうだ。 だから3カ月前の私と今の私では全くの別人と言っても良いかもしれない。 数で言ったら36兆個分も違っているのだから。 この「別人に感じる感覚」についても、私は上に書いた年月のことと同じように感じていて、 1年前の自分は、今の自分とは完璧別人だと思うし、 3カ月前も別人だと思う。1カ月前はまあまあ違うかな、くらい。 別人に感じる、という意味は多重人格的ということではなくて、 なんというか、 ステージが違うというか、生きているステージ?場所?空間?次元?が違うように思う。 なんかそんな感じなのであります。 いまこれを書いていて、ふわっと感じたことがあって、 じゃあだからと言って、時間が過ぎるのが常に猛スピードに速いと思っているか、 と言ったら、そうでもない。 例えば先ほど(ふわっと感じたこと、と上記に書いた瞬間)、 時間がものすご~くゆっくり揺らめいている、うごめいている、くらいの感じに 感じた瞬間があった。 宇宙には時間なんてなくて、それはただ人間が地球でつくった概念であって洗脳であって、 「時間は伸び縮みする」というのが真実なんだろうなあ、と思う。 洗脳って、催眠術みたいなものだと思うが、 きっと文明社会に生きる人間はすべて、催眠術にかかった状態で生きているんじゃないか。 かかり具合とかが人によって違うっぽいけど。 私は催眠がとけた状態がどんな自分で、どんな地球になるのか、 見てみたい。

瞬間の次の瞬間

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 過去も未来も無い、あるのは今だけ。 と聞いても意味がうまくつかめない。分かるような分からないようなフワッとした感じ。 私も肌感覚でつかんでいる感じ。 頭(脳)で理解しているか、と言われると、していないような気がする。 ただし、日々、その肌感覚がはっきりしてきている感じはある。 多分それがそのうち、頭でも理解が深まるのではないだろうか? いまこの瞬間が、次の瞬間をつくっている。 いまこの瞬間の私の感情が、次の瞬間の現実をつくりだしている。 いまこの瞬間の私の感情エネルギー(素粒子)は放たれ、 周囲の素粒子にぶつかって、私の元へ跳ね返ってくる。 いまこの瞬間が次の瞬間をつくる。 その連続が「未来」をつくる。 だから、 いまこの瞬間の自分の在り方を変化させれば、 「未来」も変化する。 自動操縦のままなんとなく進めば、いまと同じ。