アバター


私は映画 「AVATAR 」(2009年 ジェームス・キャメロン監督)がとても好き。

人と話しているときにそれを伝えたら、その人はこんな感じのことを言った。

因みにその人は、この映画を観たことがないという人。

「え、、、あの映画って、人間がなにかに繋がれて人間でなくなって、戦って、みたいなやつでしょ」

その言葉の中には『りえさんがそんなの好きなんて意外なんだけど』という雰囲気があったように感じた。

それを聞いて私は「あ!」と思った。

「私が観て注目していたAVATARの世界と、この人が思っているAVATARの世界が違う」

ということが分かった。


例えば。

ピラミッド型のモノがあるとして、

私はそれを真上から見て「正方形だ」と思っている。

花子さんはそれを真横から見て「三角形だ」と思っている。

単に見ている側面が違うだけ。

それと同じようなことが今回のAVATAR好き/嫌い問題である。


私はAVATARの映画の何もかもが好きなわけではなく、何がすごく好きだったかというと、

パンドラという星に住むナヴィという民族たちの生き方。

生き方というか、在り方というか。

自分たち以外の生命体(植物も動物もすべて)との関係性が好きだった。

リスペクトしあい、自分たちもすべての循環の中の一部であることを知っていて、

それを楽しんでいて。

そして陽の沈んだ後のパンドラの森は、ぞわっとするほど美しかった。

今でもあの森を想うと、全身がぞわっとする。

言葉にするとうまく言えないが、パンドラの森の世界観が好きだった。


人間が何かに繋がれて、脳の中でアバターとして別世界を体験し、戦って、

みたいなことには、あまり注目していなかったので、その辺は私にとっては

補足映像?みたいな感じだった。

「また、人間はこうやって占領して戦って、ほんとバカ」とは思ったけど、

私の心はそこはサッと通り抜けて、ナヴィの森の世界へ飛び立っていた。


ということで、私がこの映画の何が好きなのか、を相手に伝えた。

私が好きだと思ったこの世界観は、その人も好きそうな気がする。


因みに2022年公開のAVATAR2は、全体的にあまり心躍らなかった。

極めつけは映画の最後の最後。

ラストのシーンのメッセージにドン引きし、映画館を後にした。

映像はとても美しかったです。

という感想を私は持った。


AVATARという英単語の語源は Avataara (サンスクリット語)だそうだ。

化身、具現、権化、などの意味。

現代では、仮想空間などで自分の分身的な存在のことを指すことが多い。

日本の内閣府が発表しているムーンショット計画では、

日本人に仮想空間で生きてもらおうという計画らしいが、

肉体または脳みそだけ?繋がれたままでいるなら、

いくら仮想空間で楽しめたとしても、

地球という物質世界に生まれる意味あるんかなあ?と思う。

やったことないから分からないけれど、

今のところ私はあんまりピンとこない。




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