ともだち100人の歌

 「一年生になったら」 作詞:まどみちお 作曲:山本直純

ともだち100人できるかな?


という歌。初めて聴いたのがいつだったのか全く覚えていないけれど、

幼稚園か小学校低学年の頃なんだと思う。

少し前に、頭の中に「ともだちの人数」についてのいろいろが

やけに巡っていたことがあって、この歌を思い出した。


今の私が思うことは、友達がたくさんいなくたっていいじゃん、という考え。

そもそも友達って何だろう、と言う話になっちゃうんだけれど。

どこからが友達で、知人で、仲間で、なんだろう。

まあとにかく、

昔の私はどう思っていたんだろう?あんまり明確に覚えていないけれど、

いなくてもいい、とは思っていなかった気がする。

友達人数が多いから良い、とか、多い方が幸せ、というような雰囲気の中には

居た気がする。


ともだち100人できるかな、の歌を聴きまくっていたとすると、

おそらく脳みその中は「たくさんいた方が楽しそう/幸せそう/良さそう」という

状態になっているんじゃないか。

ちょっと言葉は強いけれど洗脳状態みたいな。

私流に言うと「思い込みが作られている状態」みたいな。

もしそういう状態になっていたとすると、

いざ小学校に入学して友達と呼べる人ができなかった場合、

親は「友達ができなくて心配、不安、大丈夫か」となる人が多いだろうし、

それが子どもに伝わって、子ども自身も「友達ができないとダメなんだ」となって。


たくさんの人と一緒にいることが好きな人と、

一人でいることが好きな人と、たった一人の気の合う人とだけ居たい人と、

みんなの中にいたいけれどちょっと離れたとこに居るのが好きな人と、

時と場合による人と、

人によってそれはそれは様々だと思う。

それに、

小学1年生のクラス分けの中に気の合う人がたまたま居ない場合もある。

いきなり気の合う人だらけの場合もある。

高校2年生くらいになって、一人だけ気の合う人が見つかる場合もある。


何かで読んだ内容で「コミュニケーション障害とされている人は、障害なのではなく、

コミュニケーションを取れる/取りたい相手がたまたま今まで近くにいなかっただけ」

とあって私は共感した。

コミュニケーションの取り方だって人それぞれだから。

”まあまあ誰とでもなんとなく当たり障りなくコミュニケーションを取れる人” 

がいわゆる「普通の人」で、それができない人は「障害」とされるのだろうか?


因みにこの投稿は、ともだち100人の歌の存在を否定しているわけではありません。

この歌のことを思い出して歌詞を調べていたら、面白いものが検索に出てきた。

・ともだち100人 歌詞 怖い

・ともだち100人 歌詞 一人いない

とか。

見てみたら、歌詞のなかで山の上でおむすびを食べるシーンがあって、

その時の人数のことを言っている内容だった。

みんないろんな憶測を書いていておもしろかったです。


砂漠、ともだち100人、一年生になったら、友達




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