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見るたび大量の涙が出る話(A gathering of the tribe)

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これを見て涙が出るってことは、私はそこになんかあるんだろうな~と思う。 見ても「ふーん」という感じの人だっているはずなのに、 私の感情は揺れる。 しかもなんで涙が出るのかわからない。 後付けの理由ならいくらでも出てくるけれど、後付けだと分かっているので、 そこを考えてもあんまり意味ないなと思う。 曼荼羅の方のインスタアカウントでは紹介したことのある動画です。 エリツィンさんのブログ  で、最近また紹介されていて、私も久しぶりに観た。 再生が始まった瞬間から涙が止まらなくなるのは、初めて見た時と同じ。 (最初にこの動画を知ったきっかけもエリツィンさんでした。ありがとう) Youtube (日本語訳付き) A gathering of the tribe  

バツをマルに変える

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「バツをマルに変える」 という言葉が頭の中に浮かんできたときがあった。 少し前のことなので、何を考えていた時なのか全然覚えていないんだけど、 でもその時に浮かんだことはメモしておいた。 自分の中にあるバツをマルに変えてください オセロゲームのように、どんどん色を変えていくように 例えば過去のことで、自分的にバツをつけていたものもマルに変えてください 「あの時あんな言い方じゃなくてもっと違う言い方で言えばよかった」 と思っていることがあったら、おそらくそれはその時の自分に対しての自己評価がバツになっている。 あんな言い方した私はダメ、違う表現思いつかなかった私はダメ、みたいな。 それをマルに変えるには、 「あの時の私の精一杯でそう表現した」 「あの時の私はそれが最善と思ってそう言った」 「あの時はあの時の私のベストだった」 と思い直したらいい。 そしたら『あの時の私ってバツ』が『あの時の私ってマル』に変わる。 「あの人あんな風な態度であり得ない」 と他者に対して思っていることも、あり得ない・許せない・だめ=バツということ。 それをマルに変えるには、 「あの人はあれがいいと思っているんだな~」 「あの時あの人ができた一番があれだったんだな」 「もしかして何かとても大変なことを抱えていたために、つい、ああいった態度になったのかもしれないな」 などと思い直す。 他者のことなので本当の本当のところには、本人にしか分からない。なので、こちらとしては勝手にそう思っておけば良い。 このような感じで、自分の中に溜まっている × を、どんどん 〇 に変えていく。 そうするとどうなるでしょう? 私はなんだか明るくなる感じがします!

分かってるけどできないパターン

「望んでるだけ、願ってるだけじゃだめ。行動しろ。」 って、よく言われるし、当然のことだと思う。  魔法の国じゃあるまいし、ここは地球。 私たちは物質次元のなかで、重力と共に生きている。 行動が大切、ってことは皆よくわかってると思う。 例えよく分かってなくても、薄々感じてると思う。 そして 「わかってるけど、できない」「わかってるけど、先延ばしにしちゃう」 という人もめちゃめちゃ多いと思う。 時と場合、対象物によって、「できない」というパターンもあると思う。 行動する、ということを邪魔しているものは何か? 自分が邪魔してます。 自分の何が? 自分の思考や感情が、行動することの妨げになっている。 「やる気がおきない」「やろうとしても何か他の用事を先にしちゃう」 「やることを忘れちゃう」「できない理由を考え始める」 「失敗したらどうしようと考え始める」「あとでいっか、と思ってそのままにしちゃう」 などなどなどなど、 の思考や感情が自分の中から出てくるので、結果 「やらない」 という選択をするわけです。 「別に選択してるわけじゃない、いつも勝手に自然にそうなっちゃう」 という言い分もあると思うけれど、 これこそが自分の「自動運転プログラム」による選択! この「自動運転プログラム」って、一体どこで誰がそんな設定したんだ? 自分の潜在意識の中(無意識領域の中)に、 そのプログラムが発動する素(もと)があるのです。 生まれたときから今までの間に、 見たもの聞いたもの教えられたもの体験したもの、 などが蓄積されていて、それが素(もと)になってる。 もっというと、生まれる前、 今の人生ではないときの記憶も、装備として持って生まれてくるので、 それもストックとして入っている。 潜在意識というのは無意識領域。 無意識なものには気づけないのが普通。 だって無意識だから。 でも、それがあることに気づきさえすれば、そこに変化を与えることができる。 気づくためのサインは2つあると思ってる。 そのうちの1つは、みーんな全員が持っている『感情』。 感情は標準装備で全員持ってる。公平に。 (感情の振れ幅が違うのは個性だし、それこそ無意識領域からの影響による。 感情を出すのはよくない、という設定をしている人もいる。) (因みに、もう一つのサインは、いまの現状に疑問を持つこと。思考停止にならなずに。) 潜

ものごとの境界線にあるもの

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 ” ものごとの境界線にあるものっていいですよね。おかずとごはんをまぜると異様においしいし。里山や海辺は表情豊かだし。昼と夜、夜と朝の境目は美しい。蟲の居所も、境界線上です。まぜごはんや海辺のような・・・そんな話を描きたいです。” 漆原友紀 著 「蟲師」3巻の裏表紙より引用 どの巻も表紙の絵の世界観や手触りがとても美しくて、じっと見ている。そこで見つけたのが上記の文章。一度サラッと読んで「ん?」と何かを感じた気がして、また読んだ。 それで思い出したことは自分のこと。 「私っていつも両方に片足つっこんでる感じだなあ」 「私って両方の世界の人たちと交流があるなあ」 「なんか橋渡し役的な位置にいるのかなあ」 というようなことを思ったのが20代前半のころだった気がする。思い出してみると、割と小学生のころから、こんな感じの状況でいることが多かったような。 で、20代のころは「どっちつかずなのかな?」「入り込めてない自分ってどうなんだろう」と、少しネガティブな方面でチラッと考えたこともあった記憶がある。でも、それはチラッと思っただけだったことも覚えている。自分のその状態で特に違和感がないことも知っていたからだと思う。 いまこれを書いていて思い出したが、以前友人がこんなことを言っていた。「私たちって、無所属、だよね」これを聞いて、ほんとそうだしそれがいい、とそのとき思った。 橋渡し的な位置にいる、という表現しか思いつかなかった20代前半のころ。いまは、無所属とか、中立とか中庸とか、そんな言葉も連想する。 で、最初に書いた蟲師の文章を読んだ数日前。”境界線にあるもの” という表現が加わった。 しかも、考えてみると私もその境界線の時間帯の空の様子や空気感が大好きだし、何かと何かを混ぜ合わて生まれる何かが大好き。思えば調香の仕事もそうだわ。 境界線にあるものの、あの何とも言えない、ゆらぎ、ゆらめき、美しさ。 それが大好き。 ということで、私自身も昔からのその自然な状態でいいんだった、と確認した感じだった。 漆原友紀さん、ありがとう。漫画を買ってくれた夫、ありがとう。アマゾンプライムのアニメで見ていた後に、夫が漫画を買って今読み進めているところ。実は夫は昔、漫画を持っていた時期があったが売ってしまい、今回私がアニメを見てはまっていたので、また買い戻す形で買ってくれた。ありがとう。

感覚明晰化

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●頭脳明晰 ずのうめいせき 思考や判断力が曇りなく、はっきりしているさま (weblio辞書より) ●感覚明晰 かんかくめいせき 自己の感覚をはっきり感じ取り、気づけるさま (わたしが考えた) 20年くらい前にある大きなセミナーに参加したとき、その講師の人が言っていた。 「僕は算数もあんまりできないし、漢字も書けないものが多い。 でも僕はいわゆる成功者の部類です。計算は電卓にやってもらえばいい。 僕は僕の得意なことだけに集中してエネルギーを注いでいます。」 みたいな内容だった。 このころはまだChat gptもないし、Google先生も昨今ほど頻繁には使われていなかったと思う。スマホもなかったし。 この講師の人が今も健在で、当時と同じような考えであれば、 自分の不得意なことはAIや、それが得意な他の人たちに益々任せて、 自分の得意なことにエネルギーを集中させているだろうと思う。 ネットで検索したらなんでも出てくる時代。 ただし検索キーワードによってヒットするものは違う。 そして近年はちょっと変わって、 検索エンジンによってはなんでも出てこない時代になった。 検索エンジンの運営会社の方針によって、 検索上位に表示するものしないもの、をAIによってプログラムしている。 運営してるのは企業なわけだし、 株主の意向や資金提供してくれる人たちの意向が反映されるのは当然なんだろう。 とはいえ、20年前と比べたら膨大な量の知識を得ることができるようになった。 簡単に、表面上は無料で。 (検索エンジンはこっちの情報を集めてるので敢えて表面上と言う) 情報がありすぎて 「一体どれが本当か分からない」「なにを信じたらいいのかわからない」 みたいなことになってる人も多いと感じる。 そうなってくると 「NHKで言ってることなら間違いないでしょ」「政治家が言ってた」 「芸能人の〇〇が言ってた」「TVで言ってた」「Twitterで話題になってた」 「私の尊敬する〇〇さんが言ってた」 というように、 自分的に「すごい人」だと信じている「誰かや何か」が言ってたものを 『 正 』とする人もいると思う。 私はどうしてるかというと、自分の感覚を頼っている。 誰がなにを言っていようが、街中がある方向の雰囲気になっていようが、 検索上位に一つの種類のことばかりが表示されようが 「なんか変な感じがするな~」「

自分軸のある人を演じてみる実験

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 ”自分を持ってる人” とか ”自分がちゃんとある人” のように言われる人ってどんな人だろう。最近の言葉で言うと ”自分軸 ” のある人。 10代のころの私は ”自分の意見が言える人 ” が、そういう人のことだと思っていた。 自分の意見を言えるということは、なにかについて「私はそれについてこう思う、こう考える」と考えることができる人のことだ、と思っていたし、 その ”なにか” は、 例えば社会問題とか環境問題とか、日常にある誰かと誰かの問題とか、クラスの中で議題になることとか、いわゆる何か特定の『問題とされること』についてだ、と考えていた節があったように思う。 そして、いまの私がどう考えているかというと、10代のころとは少し変わった。広くなったというか、深くなった。 自分を持っている人(自分軸のある人)というのは、 『問題とされること』について私はどう考えるか(=自分の意見)があることもそうだけれど、もっと日々の日常の中で、 「私はこれ好き、これ嫌い」「私はこれがしたい、これはしたくない」「私は行きたい、行きたくない」 というような単にしたいのかしたくないのか、という自分の自然な欲求希望を、自分の中に持っている人が  ”自分を持っている人(自分軸のある人)”  なんじゃないかと思っている。 しかも、常にそういう欲求希望があることに、自分自身ではっきり気が付くことができていて、もっと言うと、その欲求希望に従って実際動くことができている人。 多くの人が経験ありそうなことで例えると 「あ、12時だからご飯食べなくちゃ」と思って食べる。又は、12時なのを知っていても、周りの人が食べていても「私はいまお腹減ってないから、まだ食べなくていいや」と食べるのはやめる。前者は、自分の今の状態がどうかな?と考えず又は無視して、時間や周囲の都合の方へ自分を合わせている。後者は、周囲はこうだけれど自分はどうかな?と考えて、自分の都合の方へ合わせている。 これだけ聞くと、そんな自分勝手にしていたら周りに迷惑が…、と思うかもしれない。 この例の後者の人は、我慢していない人。周囲よりも自分の方へ合わせている人。こういう人は、身体の状態も良いだろうし、ストレスも少ないだろう。ってことは、おそらく良い気分で過ごしている時が多いだろう。そうすると、自然とやさしくなれたり、寛容になれたり、細かいことにい

日常がパラダイス = 人生がパラダイス

日常の繰り返し(積み重ね)が人生 生活の繰り返し(積み重ね)が人生 だと私は思っている。 なので「人生よくしたい」「たのしい人生にしたい」「あの人の生き方あこがれる」 とか思うのであれば、日常生活をよくすること、日常生活をたのしくすること、 日常生活をパラダイスにすること。 「日常にうんざり」という気持ちを持ったままで、『楽しい』を求めて 旅行をしたり、お酒を飲んだり、環境を変えたり、人間関係を変えたりすると 「これをしている ”時だけ” は楽しい」 「これをしている ”時だけ” は日常を忘れられる」 という『一時的な快楽』になる。 そこから日常へ戻ったら、また以前と同じ日々。 例えば楽園的なところへ引っ越ししたとしても、そこの環境に慣れてきて そこがまた日常になれば、以前の自分がムクムクと出てくる。 そしてなぜかまた以前と似たような問題を抱えるようになる。 なぜか?この理由は明らか。 まずエネルギー的観点から言うと 自分そのものが何も変わっていないので、その自分の波動(周波数)は 似たような波動(周波数)のものと共振する。 引き寄せ始める、周囲に集め始める。類は友を呼ぶ、の法則と同じ。 そして脳の仕組みから言うと、 自分の潜在意識(無意識領域)のなかに溜め込んでいるものを整理していないので、 また以前の自分と同じような思考パターン、行動パターン、情緒の揺れパターンになる。 人は潜在意識(無意識領域)にストックしている膨大なデータを元にして、 見る・聞く・考える・行動する、という脳の仕組みになっているから。 『不満な今』『こうしたいけど叶ってない今』を抱えている人が、 環境を変えること、気分転換のための何かしらをすること、人間関係を変えること、 などはとっても大切なことだと思う。 変化を求めるときは私もこれらをする。 ここで間違えちゃいけないのが こういうこと ”も ” する ということ。 外側のことだけ変えればOK、ではない。 「一時的な満足でいい」という人は、外側のことだけ変えればいいと思う。 もしくは「悩みをかかえた状態の方が好き」という人も、 やはり外側のことだけ変えればいいんじゃないかと思う。 これも好みだから。 話を戻すと、 外側のこと ”も” 変えながら、内側のこと ”も ” 変える。 内側のこと=自分の中身=顕在意識と潜在意識とエネルギー領域 そうす

願うということ

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「わたしもソロモンみたいに空を飛べたらいいなあ」 なぜ?なぜ空を飛びたいの? 「いつも地面の上を歩かなきゃいけないなんて面白くないよお。すごくゆっくりだし。いろいろな所へ行くのにもすごく時間がかかる。それに見えるものも限られてる。地面の上にあるものだけしか見えなくて、つまらない」 あのねえ、サラ、君は僕の質問にちゃんと答えていないみたいだね。 「あら、答えたわよソロモン。わたしが言ったのは、空を飛びたい理由は・・・」 面白くない地面の上を歩き回るのが好きじゃないから、だろう?あのね、サラ、君は『なぜ君が空を飛びたいのか』を話したのではないんだ。君が僕に話してくれたのは『空を飛べないことを君が嫌だと思う理由は何なのか』ということだ。 「どこが違うの?」 ああ、サラ、大きな違いだ。もう一度、答えなおしてごらん。 引用 ”サラとソロモン”   エスター&ジェリー・ヒックス著 この部分を読んで、わたしは心が熱くなった。 なにかを願うとき望むとき、そうする/そうなると決めるとき、この部分はとっても大切なポイントになると思うから。 心がなんだか熱くなったということは、もしかして私も分かっていたつもりだったりとか、 できていない時があったりするのかもしれない。 なにかを願いながら、同時に、それが叶わない場合どういったことがあるか、 ということにフォーカスしていたら(それについて話したり考えたり「うわーやだ」と感じていたりしていたら)、 そっちが叶ってしまい、願っていた方は永遠に叶わない。 それが宇宙の仕組みだし、素粒子や波動の仕組みだから。 長く、強く、感情を伴って、考えたり思っていたり想像していたりしていたことが叶う。 それが自分にとって、都合が悪いことであろうが良いことであろうが、関係ない。 宇宙はシンプル。 ソロモンは上に引用したやり取りの後、もう少し会話があって、その後こう言う。 そうだ、サラ、その調子で、なぜ君が空を飛びたいのかを話してごらん。それはどんな感じがする?どういう風に感じる?それがどんな感じか僕にも感じられるように話してみてごらん。空を飛ぶことはどんな感じがする?地面の上にいることがどんな感じかとか、空を飛べないことがどういうことかについて話すのではなくて、空を飛ぶことがどんな感じがするかを、僕に話してほしいんだ。 それを聞いてサラは、もし自分が空を飛んだら

香りは装身具にもなり戦略的にも使える

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下部の ”なぜ香りなのか?” は、先日、私のホームページの調香セッションのページに補足で追記した内容。 この投稿の前いくつかにわたって書いた脳とか感情などについての 投稿にも関係しているので、 両方読んだ方はつながりが感じられると思います。 潜在意識、思考、感情、メンタルなどに、とてもとても関りがあるのです。 ーーーーー なぜ香りなのか? 味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚。このなかで嗅覚はとてもユニークな動きをします。 嗅覚以外の感覚は、それを感じると、 まずは理性・思考・分析・言語などを司る左脳へ信号が伝わります。 しかし嗅覚だけは左脳を通らず、 本能・感情・記憶・閃きなどの右脳エリアへ電気信号が直行します。 思考でアレコレ考え始める前に、潜在意識や本当の自分へ香りの信号が届くということです。 このページの上の方に「香りでできることの例」を載せていますが、マインドセットも気持ちの切替も自分軸の強化も、こういった理由の元、香りのサポートによって深い部分でそれができるわけです。 アレコレ考えず頑張らずシンプルに、ただ単に香りを嗅ぐだけでそうなる。 体の仕組みにのっかるだけなのでとても楽で簡単です。 しかもその香りは植物の香りで、しかも自分用に調合された香りであったら、 より一層「自分に届く」そして「自分と響き合う」と、私は感じています。 ※植物の香りが良くて化学合成の香りは悪い、とは一概には言えません。 使い方や使う量、個人差など様々なことのバランスで、危険性や合う合わないが変化します。 ーーーーー 服、靴、鞄、ジュエリー、お化粧、などと同等の感覚で、装身具のひとつとして香りを使うもよし。または上記の仕組みから、自分の脳に対して意図的、戦略的に香りを使うもよし。 どちらにしても、気分を変えてくれるもの、であることは間違いありません。

右脳と左脳

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感覚や芸術は右脳、考えたり計算は左脳、と言う。 右脳人間、感覚人間、完璧左脳の人、とかいう言葉も聞いたことがある。 私はインスタの点描曼荼羅アカウントの方で以下のようなことを投稿することが時折あります。 「右脳も左脳も両方を使っていくんですよ」 「直感を使って描くけれど、どうやったらどんな点が描けるか左脳を使って考えて、手を動かして実験して、どうなるか観察するんですよ」 右脳も左脳も、それぞれ役割が違うわけなので、使い分けていけば良い。 現代の特に日本では、左脳を活躍させている人が多いと思う。 活躍させすぎて左脳が過労死するんじゃないか、くらいに使い過ぎていると感じています。 感覚派の人は、ちょっとバカにされる感じが強い時代もあったかもしれない。(今もあるかもしれない) 以下の流れで、私たちの体内(体外も?)で情報の受け渡しが行われているようです。 エネルギー的なものを心(心臓のあたり)で受け取る → それを右脳で感覚的に感じる  → その”感じ”を左脳へ渡す  → 左脳がそれに理由付けしたり分析したり判断したりする → なんらかの言動や行動をする(または行動しないと決める) 右脳も左脳もどっちも必要だし、どっちかだけを使う、使わない、は 無理があるんだなと思います。 時と場合に応じてどっちも使う。 本来は、特に意図せずとも自然に両方を使えるのが通常モードだけれど、 「こうすべき」「こうした方が合理的」「前はこうだった」「普通はこうでしょ」 などで自分を固めていると、せっかく右脳で感じたものを無視して蓋をして、 いつでも左脳優先になる。 左脳優先はみんな相当やってきているので、たまには右脳優先にしてみたらどうなるか、 試してみてもいいんじゃないかなと思う。 ものは試し。実験的に、ゲーム感覚で。 何度かやってみて自分的にイイ感じであれば続けたらいいし、 あんまりだなーという感じであればやめたらいいし、時と場合でやったりやらなかったりでもいい。 浅見帆帆子さんがこんなようなことをおっしゃっていた。 「なにかを決める時、感覚だけで決めていません。割と調べます。そして調べた内容に対して、自分がどう感じるかを見ます。そして最終的に、良いと感じる方や違和感のない方を選びます。」 細かい言葉は違うかもしれないけれど、大まかにこんな感じのことだった。 感覚の右脳も、分析判断の左脳も