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思考の備え(防災用品みたいに)

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ミナミAアシュタールさんのYoutubeを見ていたとき 「思考の備え」という言葉が出てきたときがあって。 そうだ、その言葉!と思った。 日本では防災のため、水やらなにやらの ”物 ” を備えている人は多いのだろうし、 さらに、避難経路や場所などの ”動き ”を家族全員で確認しあっている人も多いと思う。 じゃあ『思考の備え』とは何か。 質問でーす! 自分が行動するときのきっかけは何でしょう? または行動をやめるときのきっかけは? 他者や出来事に向けて言葉を発するときのきっかけは? ちょっと自分の言動を思い出してみると、 気分の上下、さまざまな感情の揺れ、いろいろな思考(こうあるべきとか)、 がきっかけになっているはず。 余裕のある気分のときは、 人に対して広い心で対応できるし許せたりする。 イライラしている時は、 物も人も丁寧に扱わなかったりする。 つまらないと感じると、 どんなに熱心に話しかけられても集中できなくなる。 すごく好きだと思うと、 他のことは目に入らず一目散にそこへ向かうことができたり。 情熱が冷めてきて面倒になり、 習い事に行くのをやめる。 自分が我慢していることを他人が自由にしていると、 許せない気分になり批判の言葉が出る。 落ち着いた気分のとき、 物事を冷静な視点で眺めることができたり。 「あなたの言葉も行動も、ぜーーーんぶ、 あなたの感情や思考に支配されているんですよ! あなたを支配している存在は、あなたの感情や思考です。」 と言っていいくらいに影響を与えていると思う。 パッと口から出た言葉、ついしてしまった行動、 またはそれがよく考えた上で言ったこと、したことであっても。 その根底にあった自分の本当の本当の感情や思考、は何だったのか? 例えば会社の人事や、 国同士の関係での大きな決断(例えば原爆投下の場所)なども 結局最後の決め手は「感情」であることが歴史をみると分かる、 という本を読んだことがある。 どんなに戦略的に論理的に考えて決断して行動すると言われる種類の人達であっても、 結局最後は感情が決め手になることも多いそうだ。 計画を練って話し合いを重ねて最後決める時、 いまこの瞬間選ばなければいけない時、 「Aはやっぱり気にくわないから」「Bは想い出のあるとても大切な場所だったから」 「Cにはどうしても違和感が残るから」 みたいな個人的な感情

猫のようにするといいらしい

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大人になってから、ある時に気づいたことがあった。 「私は身体にいつも力が入っている」 初めのころは、だからそれが何なのかとか、それをどうにかしようとか、 思っていなかったのだけれど、 実はその力みが体調に関係していることに徐々に気づいていった。 気づいてからは、意識してリラックスさせることをしてみたが、 ふと気づくと、また力が入っている。 グーッとパワー的な力を発しているというようりも、 長く静かに続く緊張感の系統の力み方。 常に緊張状態にいることが通常モードになっているらしかった。 力を抜くための動作をいくつか習慣にしてみたり、 香りを使ってみたり、潜在意識下に入っているものを解放してみたり、 身体に聞いて押し込めていた感情を解放してみたり、 いろいろ試して以前よりも随分マシになったのは感じている。 でも、まだある。 最近自分はそこをもっと集中的に改善したくなっている時期ようで、 ふと目にするインスタ投稿が、 私と同じような緊張モードの人の投稿だったりする。 自分の身の周りに起きる出来事は、自分の思考の反映なので、 自分がよく目にするもの耳に入ってくるものを観察すると、 自分が何に意識を向けていたのかがよく分かる。 先ほどみたミナミAアシュタールのYoutubeでも ちょうど緊張モードの話がテーマになっていた。 そこで、相談を受けていた宇宙人アシュタールさんが答えていた中にあった言葉が 私的には印象的だった。 力が入っている=緊張状態=戦闘態勢=何かから自分を守ろうとしている あなたは何から自分を守ろうとしているのでしょうか? というようなことを言っていた。 緊張状態、までは私も思っていたけれど、 それが戦闘態勢とは考えていなかった。 もし私がこの状態だとしたら、 一体わたしは何から自分を守ろうとしているんだろう? という視点で自分をみてみたら、出てきた映像と感情があったので、 それらは解放して、思考設定も取った。 わたしは「息をひそめていなければいけない」という状態にあった。 取った瞬間に体感で分かるのだけれど、これは割と大きめなものを取れた。 あと、猫のこともアシュタールさんは言っていて、 試したことがない系統のことだったので、やってみようと思う。 実は聞いた後にすぐにやってみたが、まだうまくできていないので、 今後も引き続き試してみる。 これまた全然関係のな

メタトロン診断

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自分の身体の状態を知るため、 年に1~2回くらいのタイミングでメタトロン診断を受けている。 日本の病院でやっているような健康診断は、10年くらいは受けていない。 メタトロンは周波数測定機器で、 元々はロシアの宇宙飛行士の健康診断のために開発されたもの。 細胞、体液、神経、筋肉、臓器、骨、感情 etc、 体内をくまなくスキャンしていくので ものすごく様々なことが分かる機械なのだけれど、 初めて受けたときに私が一番知りたかったことは、 自分と夫の今の身体に合う食材と合わない食材。 家での食事は私が準備することが殆どなので、知っておきたい情報だった。 かといって、ストイックになりすぎるのは好きではないので、 「参考にする」というくらいなスタンス。 因みに診断では、機械から出てきた数値や言語を単に見て終わり、ではなく、 診断士が数値から読み取ったことを教えてくれたり、 それについて話し合ったり、 いろいろな視点・方向からのアドバイスを聞いたりする。 ここが人間的な部分で私はとても好きだし、 割と重要視しているポイント。 ただし、人間が言葉を発するということは、 ”診断士の知識の広さ深さや人となり” によるところがめちゃくちゃ出る部分なので、 どんな人からメタトロン診断を受けるか、がとても大切だと思っている。 私は幸い、自分的にとても信頼できて波長の合う人と出会えたので 毎回その人に頼んでいる。 そう、それで去年の今ごろに受けた時に、 小麦粉が要注意食材のリストに上がってきていた。 それまでは、そのリストに何か出たことはなく、初めての経験。 それを見た時「あーやっぱりそうなんだ!」という感想だった。 私はパンが大好きで年中ほぼ毎朝パンを食べていたのに、 去年の夏頃は食べたいと思わなくなっていた。 それにその頃、小麦の麺類やピザなどを食べると、 なんだか気持ち悪くなるような感じがすることがあった。 という体感があったので「やっぱり」だった。 アレルギーにはなっていなかったのがラッキーだった。 パンもピザもパスタも大好きだから、おいしいものをこれからも楽しみたい。 何故このタイミングで、こういう結果になっているのか、 というところについて、 その頃の生活を振り返ることや、入れるもの出すもののこと、 様々な要素から読み解いてもらったりして、 気の流れ、思考回路、感情、季節、食べ方、

私はスピリチュアル系か?

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この2年くらいで出会った人から、時々 「りえさんのようなスピ系みたいな人って云々」という言葉を聞くことがあって、 その都度私は心の中で「え?私ってスピ系と思われてるの?」と少し驚く。 少し驚くけれど、大抵そのときの話の焦点はそこではないので、 その部分は聞き流して、話しの本筋の方に集中して耳を傾けている。 そもそも「スピリチュアル系」とは何か、というのは人によって認識の違いはあれど、 「こういうことが好きな人たち」みたいな、 世の中で言われる(おそらくメディアが広げた)認識というのがある気がする。 私が感じている「スピリチュアル系の人」は次のような感じ。 神社仏閣系統が好き、お参りにいくのが好き、龍とか妖精とか好き、神様系の話が好き、崇めている対象がある、占いとか好き、目に見えない存在が好き、高次元が好き、パワースポットが好き とかとか? いま思いついたものを羅列しました。 私はヒーリングスクールやセッションの仕事を始めて、 講師も受講生も含めて、そこで関係する人たちと触れ合う中で気づいたことは、 「出身地の違い」 みたいなこと。 上に羅列したような界隈の人が多いように感じたことが何度かあったことで、 「私、そこ界隈の出身じゃないんです」と思うに至ったし、 それが私の特徴なのかも、と思った。 因みに出身地が違うからといって、仕事をするうえで困ったことはない。 ただ単に、私とは違う見方の話を耳にする機会があったり、 私の知らない世界の話(占いの館とか)を耳にするだけ。 で、やっぱりそういう時も話しの本筋はそこではないので困ることはない。 (自分自身の生徒たちは、類は友を呼び、私と似た系統の人が多かったりする) 私は上に羅列したものは、しない、行かない、興味がわかない、という感じ。 あっても、たまにチラッと覗き見するとか、参考情報のひとつにするとか、 いいとこどりして終わりとか、その程度です。 何かが視える聞こえるで困った経験もない。 存在は知っているし尊重はしているが崇めてはいない。 なんというか、全員同じ(レベル?階層?)だと思っているというか。 おそらく単なる興味の方向性の違いや、信じているものの違い、かもしれない。 物質的なものではないものをSpiritualと言うならば、 私は、この世はスピリチュアルで成り立っている、信じている。 この世は目に見えないものの方

私のゴールが変わった

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ここで言うゴールとは、死ぬとき、の意味。 いまの私の肉体を離れるとき。 どうやって死ぬか、は知らないけれど、 どう感じて死ぬか、は私は昔から決めていた。 前から決めていたのは 「あ~なかなかおもしろい人生だったな クスッ」(と笑って)終わり だった。 それが先日、自分の理想の死を書く機会があったので、 改めてそれを書こうとしたら、あれ?なんか違和感。 すごく違和感。 それで気づいたのは、 私のゴールが前とは変わってる、ということ。 新しいゴールは、 『あ~やりきった!おもしろい人生だった!ありがとすべて!大満足!これにて終了!』 という感じでバイバイするものだった。 これ、こうして文字だけだと変化が分かりづらいかもしれないけれど、 私的にはその時(死ぬ時)の感情がめちゃめちゃはっきり感じられていて、 前と今の違いがすごく分かる。 なんというか、ホテルの部屋がアップグレードされたみたいな感じ。 なんで変わったのかなーという理由も、自分を振り返ると分かる。 少し前に自分の人生の進め方を設定しなおしていたから、 前のゴールだとズレが生じたんだと思う。 というか、目標設定の視点から考えると、 まずゴールを決めてそこからだんだん細かく落とし込む、 という順番がある。 もしかしたら私は実は、無意識レベルで先にゴールを変更していて、 それで、人生の進め方を設定しなおそう、 と思ったのかもしれない。 まあ、順番はどっちでもいい。 とにかくゴールは変わっていた。 変わったことが、文字にして書く機会があったことで、 はっきり自分で分かった。 って、入力しながら鳥肌。 私、この前の日に以下のようなオーダーを宇宙へしていました。 「私は本当はどんなライフスタイルを望んでいるのか、 はっきりとコレだ!とわかることを私に起こしてください」 多分このオーダーの答えが、 自分の死に方を書く機会だったんじゃないかな。 じゃあ、そこから続くオーダーをするとしたら 「このゴールへ向かって、具体的に私が何をしていったら良いか、 私がはっきりとコレだ!と思えるような出来事を起こしてください」 と、してみてもいいかなと思っている。 因みに、死ぬときどんなことを思って死にたいか、ということを 決めておくと良いと思ってる。 なぜならば、 日常にある細々とした様々な願いや望みや、思考回路や行動というのは、 最終的に

引寄せの法則はスピじゃない

モノは上から下へ落ちる、なぜなら重力(引力)があるから これは地球に生まれた人は全員知っていること。 落ちる理由が重力の影響だということは、遅かれ早かれ知る。 物理学的な難しい計算式なんて知らなくても、 ” どうしたらどうなる ” を当たり前に知っているので、落ちないように気を配ったり、対策したりする。 地球に生きている限り、死ぬまでずっと、全員が、この法則のなかに生きる。 これと同じ原理が、引き寄せの法則。 引寄せの法則、というと、スピリチュアル分野の話だと思っている人が まだまだいるようだけれど、 これは、モノが落ちる法則と同じく、物理学の法則。 ” 物理学の法則だから生きてる限りずっとその法則が全員に働いている ” ということが、インターネットの普及などによって 物理の専門家でない私のような人でも、これを知る人が物凄く増えていると思う。 多分、引き寄せの法則という言葉で日本にバーンッと紹介されたきっかけや その後の経緯などが『これはスピリチュアル業界の話だ』という認識を 多くの人に植え付けたんじゃないかと思ってる。 話を戻すと、引き寄せの法則は、 生きている限り嫌でもなんでも、全員に働いている法則 なのだから、知っておいて損はない、というよりも、 知っていなくちゃ生きるのに不便、知っていて当然、という事だと思うし、 言い換えると、知らなかったら生きるのに苦労する、だと思う。 ・モノは落ちるんだから手でしっかり持っていなくてはいけない ・モノは落ちるんだから台の上に置いておかなくてはいけない ・モノは支えが必要だからこそ家具というものがデザインされた ・モノは上へ浮いていかないから今のようなデザインで良い 上記のことって、当たり前の当たり前って感じですよね。 例えば、別の惑星の人が初めて地球に来たとする。 しかもその惑星は例えば限りなく重力の低い惑星だったとする。 そしたらきっと、その異星人は地球での生活がうまくいかないことだらけだと思う。 到着した途端から、モノは落として壊す、座ろうとして尻もちをつく、そもそも歩けない、とかね。 地球人のように振る舞おうとすると、おそらくこうなる。 引寄せの法則は、成功哲学界隈(?)では次のように言い換えられている。 現実創造、思考の現実化、願望実現 どっちにしても、なんだかある特定の分野の人たちの話、みたいな雰囲気を感じるか

ルーティンとは

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決まった動作の繰り返しや毎日の日課、などを意味する単語ルーティン。 「これが私のルーティンワークなの」 「私のモーニングルーティンは云々」 「まずはあなたのルーティンを書きだしてみて」 とかいう感じで使われている。 朝起きたらとりあえず窓を開ける、〇時になったら必ずコーヒーを飲む、食べた後は必ず歯磨きをする、必ずこの道を通って家に帰る、 などの日常の動作もそう。 どちらかというと無意識にしていることだったり、 どちらかというと機械的作業、お決まりの作業。 ルーティンから抜けてみる ということをするとどうなるか? ルーティンは無意識的な行動パターンなので、 それをやめるということは、 その都度ちょっと考えたり、その都度選択にせまられたりすることになる。 自分の日常を変化させたいな、今の状況いやだな抜けたいな、 自分の感覚をもっと研ぎ澄ましたいな、 なんかおもしろいこと起きないかな、 という場合は、ぜひ! ルーティンから抜けることを試してみるといいと思っている。 例えば上に書いた例で、 ルーティン(=無意識)を ルーティンじゃなくする(=意識的にする)とすると、、、 朝起きたらとりあえず窓を開ける → 朝起きて部屋の空気の状態を感じてみて「なんか淀んでるな」「息苦しいな」と思ったら窓を開ける 〇時になったら必ずコーヒーを飲む → 〇時になったけど今わたしは本当にコーヒー飲みたいのだろうか?と自分に問う もしくは〇時じゃないけどコーヒーを飲みたい時があるかどうか観察する 食べたあとは必ず歯磨きをする → 本当に歯を磨きたい感じがするのか自分に問う もしかしてうがいだけで気が済むか試してみる 例えば歯磨き粉はつけずにブラッシングだけならどんな感じがするのか試してみる 必ずこの道を通って家に帰る → 別のルートから行ってみる 曲がる場所を一ヶ所手前にしてみる とかね。 こんな感じでちょっと変えてみると、 いつものルーティン=パターンから抜け出る。 「こんなちょっとしたこと意味あるの?」 と思いながらも、きっとやってみると、 「なんか面倒くさい」「いちいち考えるの大変」 と感じる人も割といるんじゃないかな。 自分の日々になんの変化も求めてない人は何も変える必要はない。 なにかしら変化を望んでいる人は、 ぜひとも実験だと思って試してみるとおもしろいです。 こういう日常のささいな変

ウェブショップ更新しました

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東京から帰ってきた曼荼羅たちを載せ、更新しました。 国外への発送もしていますので、ご相談ください。   https://ciexis.thebase.in/

西方面への/からの引き力

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私が曼荼羅を出展していたArt&Graphic Exhibition。 そこで起きた自分的におもしろかった事について(Artとは関係ない話題)。 作品を出展しませんか、というお話は東京の日本橋にあるギャラリーからのものだった。 「東京かあ」と思っていた。 別に残念に思っていたのではなくて、私はあまり東京という場所に縁があったことがないので 珍しいなという感覚だった。 東京に縁がない、というよりも、日本だったら西方面に縁があることが凄く多かった。 場所との縁も、人との縁も。 ギャラリーでの展示を受けることに決めたのだけれど、 最初に提案された日程は、私が返事をした時点ですでに定員に達していて、 (ギャラリーでは月に2回程、入れ替えで展示をしているらしい) 別の日程を改めて提案され、そこに決まった。 それが私が展示した7月末の日程だった。 この展示は作家4名によるグループ展。 事前に他の作家の名前は知らされていたけれど、私は事前に調査?などはしなかったので どんな作品なのかは、実際に展示を見に行ったときに知った。 ギャラリーは箱型のWhite Cubeと呼ばれる空間で、 四面の壁それぞれ一面が、一作家の展示、というふうになっていた。 私の曼荼羅と向き合う壁には、私と同じ名前のRIEさんの作品。 しかもそれは点描画。私とは表現も画材も違うけれど、技法としては点描。 この日、キュレーターの方と直接お話をして知ったのだけれど、 偶然この日程に集まった四人、だそう。 (因みに、それぞれの作家を広大なネットの中から探す時は、 機械的に、作業的に、とりあえず一斉検索、返事来たらラッキー、 みたいなふうにはやっていないことも分かった。しっかりそれぞれの人のことを調べてくださっていた ) で、キュレーターとお話していたときに、たまたま地域の話になり、 「この方は大阪、この方は京都、あ、この方も京都ですね」 と、私以外の作家の拠点を知らされて笑った。 「なんだ、東京と思ってたけれど、中身はやっぱり西方面じゃん」 と思った。 そして後日、インスタアカウントのある作家の方々へ挨拶のdmをした際に またおもしろいことがあった。 ある人が現在住んでいるエリアが、私が学生時代の二年間を過ごした街だった。 超ローカルな駅名や場所の名前などが共通話題であがった。 西方面に縁がある そう思っているから、

In the white cube

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レクトヴァーソギャラリーで行われたArt & Graphic Group show 展示の様子の写真をギャラリーからいただきました。 天井も床も、右も左も、前も後も、すべて白色の箱型空間。 作品と向き合ったとき、作品以外に視界に入るものがない、という状態。 その状態をつくりたくて、このような空間を作ったそうです。 空間に使われている白色塗料や電灯色は、 ただ単に「白であればいい」というものではなく、 「明るい自然光が降り注ぐ中にいるような感覚」を得るために 調整された色や光調だと伺った。 そのなかにいた曼荼羅たちは、確かに自然光の中で見るような色合い、風合いでした。 今回、どのような人々が見に来られ、どんな体験をされたのかは 今のところ私はまだ知らない。 『見る』という行為をするということは、 物理的に必ず、相手側へ自分のエネルギー(光子)が飛んで行って 当たって跳ね返ってきて『見える』になる。 なので、エネルギーが当たった相手側にも、必ず何らかの影響が出ている。 お互いに影響を与え合っているはず。 水の中に何かを落として、そこを中心に波紋が広がるように、 どんな波の響き合いが生まれているのか、 それはどこに到達するのか、 それが私の楽しみのひとつです。 足を運んでくださった人々、心を寄せてくださった人々、 関係したすべてに、 ありがとうございました♡ http://www.recto.co.jp/verso/archives.html 展示のスライド 8月2日(金)12時まで公開中 点描曼荼羅作家 瀬戸里絵