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なんで??

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わたしは「なんで?」と疑問をもつタイプだと思います。 例えば学生時代の記憶、一部抜粋してみます。 小学生・・・風景写生で黒い水の流れる川をそのまま描いた。先生「川っていうのは青でしょ」。私の心の中「(あの川黒いよ。なのになんで青?)」。 中学生・・・私の心の中「(なんで髪を結うゴムの色が決まってるの?なんで耳より高い位置で髪を結ったらいけないの?なんで一年先輩なだけでそんなに威張るの?)」。 高校生・・・私の発言「なぜ傘の色は紺か黒でなければいけないのですか?なぜ真冬の寒い時期に制服の上にコートを着てはいけないのですか?」 。先生「変な質問をする奴がいる(怒)」。私の心の中「(え??ただの疑問なのになんで怒るの?なんで答えてくれないの?)」。 その他にも学生時代は、様々なことに対して山ほどの「?」がありました。それ以上の追求は許されなかったり、自分もきちんと言えなかったりで、分からずじまいのことが多かったです。 この世には大人の事情的なものがある、ということが徐々に分かり始めると、今度は、「じゃあ一体その事情とやらができている背景は?」と考え始める。 〇〇である、としておいた方が都合の良い人たちがいる、とか、それで儲かる人たちがいる、とか、その方が管理する手間が省けて楽、とか、単に多数決とか、昔から常識とされているから、学会ではそれが通説、とか。 「なんで??」から始まって、どんどん考えたり調べたりしていくと、この世の仕組み的なところに辿り着いたり、その中は見えなくてもいつも同じ扉の前に辿り着くことが分かったり。 又はどこにも辿り着けず、そのままそのことは忘れていたり。 ぜんぜん関係のなさそうな複数の物事が、実は奥の方でつながっていたことが何かをキーに分かったり。 今はインターネットがあるので、多くのことが調べられます。なんで?の答えやヒントがインターネットの中にあることも多い。 情報量が多い反面、どういった立場の人がそれを載せているのか注意する必要があるし、検索上位に表示される情報がインターネット側で振り分けられている言論統制的な状態があることも承知しておく必要がある。(場合によっては本の方が知りたい情報が調べられる) なにを検索ワードにするか、どこからどこへ繋げるか、なにを信じるか。 結局は自分だなー、と思うのです。 因みに、宇宙人はいてもおかしくないでしょ、と...

GAIA

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ガイア理論という考え方があることを知りました。正確に言うと、この考え方に〇〇理論という名前が付けられていることを知りました。 これは、地球をひとつの巨大な生命体として考え、単に表面的な地球というよりも、そこに住む生物、空気、水などもすべて含めた地球全体であり、地球と生物が相互的に関係しあい環境を作り上げている、という思想。 実はわたしは、いつのころからか、「地球って人間の身体みたいじゃない?」と考えるようになりました。 何故そう考えたかというと、 わたしの身体(あなたの身体も)をどんどん拡大して見ていくと、実は身体中の表面にも内部にも住人がいることが見える。わたしの身体には何百兆個の細菌や酵母菌などの微生物たちが住んでいて、それぞれがそれぞれの活動をしていて、それぞれの寿命を生きている。 わたしの身体を眺めてみたところで、まさかそこに何百兆もの共存者がいるとは思いもよらないし、もしかして、微生物たちも自分が住んでいる場所がどこなのか、まさか住んでいる場所自体が生命を持っているだなんて、思いもよらないことかもしれない。(蟻もこんな感じかな~と思います) 地球もそれと似てない?と、あるとき思いついたのです。 わたしたちは自分たちの生きている場所の姿を見ることができる。飛行機に乗れば地面からどんどん離れ、人が見えなくなり、建物が見えなくなる。それが宇宙飛行士であれば、森が見えなくなり土地の形があやふやになり、やがて一つの青く光る星があるということだけが見える。 逆に、宇宙から一つの青い星をどんどん拡大して見ていくと、徐々に土地の形状が見えてきて、森や人間の作った町が見えてきて、たくさんの生物や人間がいることが見えてくる。拡大を進めれば、菌やウイルスもいる。 ね?なんだか似てると思いませんか? 地球を身体と仮定したとき、わたしは微生物の一人。 微生物たちの調子やバランスが崩れてきたり死んだり癌化してしまったりすると、身体や精神も同じように崩れ死を迎えることもある。逆に、身体が死ねば微生物たちも死んでしまう。 相互関係。どっちが偉いとか優れているとかはなく、まさに共存。 ミラノ~東京の間のどこかの風景

満月18時間前

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9月2日(水)14:22、日本では満月でした。 その前の晩、お友達から不思議なお誘いを受けて出かけていました。 「ミステリアスなお菓子の引き取りに行くから一緒に行こう」 という。 ミステリアスでした。 到着した場所は、ハーブの生い茂るお庭のあるお宅。 道の向こう側にはたくさんのバラを育てるビニールハウス。 ローズマリーの間を抜けていくと、灯りのともされたお菓子の受け渡し窓が。 お菓子とともにミニバラのブーケも。 お友達は、やさしいピンク色のバラのブーケを選んでいた。 昔のままの雑木林がちらほら残る地域、周りは真っ暗。 湿度とほんのり涼しい夜風。 ローズマリーとバラと焼き菓子の匂い。 空には明るく光る月。 物語の中に入り込んだような、お菓子の受け渡し時間。 お友達がバラをおすそ分けしてくれました。 (ローズマリーもちょこっと道端から) 家に活けているその香りを嗅ぐと、あの夜の不思議な感覚が胸のあたりにフワリと よみがえるのです。 匂いと記憶と感情の密接な関係。 そして私も、ただのモノを提供するのではなく、そのモノに付随する物語も一緒に提供できる人になりたいと思いました。 そのようなモノを受け取ることが自分も好きだし、わくわくする。 魅せ方、プロデュース力、ブランド力、いや、その前にやはり自分の在り方かな。

アノスミア

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 昨夜読み終わった本。 ”アノスミア  わたしが嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語 モリー・バーンバウム著” 私は職業柄、匂いとか嗅覚の仕組みにとても興味があります。 これまでもいろいろ読んだり調べたりはしてきましたが、実際に嗅覚を失った人の実体験を知るのは初めて。 目が見えなかったら、耳が聞こえなかったら、こんなことに困るだろうなという想像は多くの人がある程度はできると思う。(もちろん実際の半分も想像できないと思いますが) 匂いが分からなかったら?? きっと多くの人は「うーん、そこまで困らなさそうじゃない?」と考えるのではないでしょうか。 違うんです!!! 日々無意識に感じていて、でもそれが嗅覚とは関係なさそうな、人として人生を生きるうえで実は物凄く重要な大切な部分が失われることになる。そして、じわじわとその影響が心に忍び寄ってくる。 そんなことを知りました。 他にもいろいろ。 実体験のお話なので、研究では〇〇だった、とかではなく、日常での細かい部分など、へえ~がたくさんある内容でした。

匂い追跡

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ある日のカフェにて。 そのカフェは、フレンチプレスを使ったコーヒーを出してくれるお店。 抽出に4分待っている時の香り、カップに注いだ時の香り。 途中で入店して来られた女性客から飛んできた香水の香り。(強めでした・・・) イベントスペースで行われていたアロマセッションの精油の香り。 精油瓶の蓋を開けたな~というのが見えて、少し時間差で、空気の中に流れてくる精油の香りをクンクンと探す。 さまざまな香りのする空気の中で、私の鼻の前を通る香りを追ってゆく。 そんなカフェ時間でした。 写真は年末に訪れたネパールでの朝食。この時もいろんな匂いがしたのです。 これを見ると思い出すのは、パンに添えられたバターを見たフランス人旅行者が 「おー僕はこれをずっと求めていた!!!!!」と盛り上がっていたこと。 バターの国だもんね。  

わたしの自由時間 in 人生

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人生を80年としたとき、自分の自由になる時間がその中のどれくらいあるのか?米国のある調査ではこのような時間割だったということを知りました。  睡眠に使う時間 約28年  仕事に使う時間 約10年半  インターネット、SNS、TVなどを見ている時間 約9年  通勤通学に使う時間 約1年4カ月 ここまでを足し算すると、48年9カ月。 家事・食事・入浴・身支度・子育て等、多くの人にとって必須の時間をここに足して、人生80年から引くと、  残りは 約9年 この残りが何かというと、 ”純粋に自分の自由に使える時間”  だそうです。それが9年。 日本では残業や休日出勤など、まだまだ多くの人が普通にしていることだと思うので、仕事に使う時間はおそらくもっと増える。 それに、日本の学校は親に参加させる行事が多い(学校が休みの日なのに部活があって試合があってその送迎をしたり他にも色々ありますよね)ので、子どもさんのいる方は必須時間の割合ももっと多いはず。 すると、残った9年という時間はどんどん少なくなってゆく。それに、体調が悪くて寝込んだり入院などしたら、またここから時間が減ってゆくのです。 人生で睡眠に使う時間は長いから寝具は心地よいものを、というようなことは知っていましたが、その他の時間の割合に関しては知りませんでした。 まさに時は金なり。(ちょっと違うかな?) 自分の命の時間をどんなことに使うのか、どんな気分で過ごすのか、だれと過ごすのか、どんな経験をしたいのか、今まで以上に気にしたいです。 約9年と言われる自由になる時間、これをどんどん増やしていきたいなと思いました。何に関しても、選ぶことのできる自由を持っている人になりたい。 そのために何ができるかなー?? この時間割の話は、わたしの好きなYouTubeチャンネル 神王TVのこちら  で知りました。 昨日あるカフェでパッと開いた本のページ

旅に行きたい?

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わたしは昔から旅が好きです。 見たことのない風景を見たり、その土地独特の空気感を全身で感じたり、異文化を知ったり、知らないものを知ることが楽しい。自然の中を歩き回ったり、泳いだり、食事の支度を気にせず、ただただゆっくりするのも良い。 最近のわたし、旅に行きたいと思ってる?? と自問すると、答えは NO です。 細かく言うと、行きたいところはあるけれど、多分なにか足りないものを心に感じながら行くことになって、100%行きたいかというとそうではない。その程度の気分のものにお金を使うならば、別のことに、とも思う。 わたしが一番行きたい場所、したいこと、それは 自宅に帰ること。 自分のベッドで寝て起きて、気候に合った洋服をタンスから選んで、自分の調理器具でお料理をして、自分の食器で食事をして、自分の快適な生活に必要なものは何でも揃っていて、窓の外にはいつもの風景が広がっていて エトセトラエトセトラ、、、 ”自宅”という場所での生活ができていてこそ、旅をしたいし楽しめる、それが私なのかな~と今回思っています。 2月後半~3月前半、ミラノの自宅に居た時のこと。 国のルールとして「必要不可欠な買い物や通院をのぞく外出は禁止」という状況のとき、わたしは全く不便は感じていなくていつもと同じ生活をおくっていました。 そもそも家に籠って作業していることが多い生活だったので、そこは別に変わらない。食材の買い物も行けるし、買い物の往復路が私にとっての散歩で、それもいつもと同じ。しいて言えば、ふらりとカフェに寄ったり、友達と会ったりができないことが、いつもと違うかなという程度(自分のこと以外では色々あります)。日本に帰り始めた人たちが増えてはいたけれど、私は帰る気も必要性も全く感じていませんでした。 他の国々でも外出禁止令ができ始めた頃、インターネットで見かけたStay Homeの風景で、Stay Homeできる快適な家があるって、なんて恵まれているのだろうか、と思ったことがあります。キッチンがあって食事する場所があってシャワーがあってベッドがあって窓があって。 家があったとしても、寝るスペースがあるだけで、眠るとき以外は外に出ていた方が快適、という人々も多くいることを知りました。でも家の外に出ることは禁止されている。手のひらくらいの大きさの窓があるだけの空間で、何時間も何日も何週間も過ごすの...

最高のパワースポット

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自然が多くて自分が気持ちの良いと思う場所に行くと、精神も細胞も浄化されるような感じがするし、旅をして知らない町を歩けばいつもと違うエネルギーを貰えたりする。 どんなに感動する場所に行ったとしても、やはり私は自宅が最高のパワースポットだと思っています。 それにそうあって欲しくて、自宅を居心地の良い場所にすることに心を配っています。 なんといっても、長い時間を過ごす場所なので。 いま私は夫婦で仮住まい中。 自宅から遠く離れた場所のマンスリーアパートで生活をして、かれこれ4カ月が経とうとしています。 スーツケース1つでここに来て、家の中のものはすべて借り物。 自分の趣味とは大きく違うものの中で、日々の生活をおくっています。 自分たち夫婦が、なるべく快適に気分よく過ごせるように作り上げた自宅とは ものすごーーーーーーーーく違う環境にいるわけです。 自分の基準で美味しくて安全だと思うお水を先ほど外で買ってきて、 アパートにあるコップにいれて飲もうとしたとき、 「気に入ってる自分のグラスで飲みたいな」 と思いました。 それは今に始まったことではなく、すべてが借り物なので、すべてにこの感情が当てはまるのです。言い出せばキリがないし悲しくなるので、いちいち口には出しませんが。 (自分の快適なベッドで寝たいな、とかね) 仮生活が1カ月を超えてきたころに思ったことですが、 自宅をパワースポットと思っていたので、その自宅にいられなくなったときに  ”パワーが得られない・出ない・抜けた” 状態になったように感じる(極端に言えばね)。 自分以外の外部にパワースポットを置いていると、それがなくなったときに不足を感じる。 それならば ”自分自身をパワースポット化” したら良いのではないか?? と思ったのです。 私は割とポジティブな方だし、出たとこ勝負というか置かれた場所で楽しむというか、 なるようになる、それが良かったんだという風にしかならない、 のような思い込みを持っています。 なので、今回も毎日暗い気持ちになっているわけではないのですが、 人間なので時々「あ~あ」という時もあります。 自分自身のパワースポット化って、一体どんな状態だろう? どうすればそうなれるんだろう? わかるようでわからない。一言で言えない。 当時なにやらいろいろ考えていたのですが、それもそのうち忘れていて、 いま...

地球温暖化か寒冷化か、または?

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物事には色々な意見、見方があるのが当たり前だと思っています。 だって、人は皆それぞれ脳みそを持っていて、 感じることも考えることも閃くことも人によって違うし、 その人の専門分野や立場、生まれ育った環境、受けてきている影響、信じていること、 などなど数えきれないほどの要因をベースに、 様々な意見が生まれるのだと思う。 昨日インスタグラムを見ていたら、日本ではとても有名なモデルの方の投稿で、 地球温暖化についての本の紹介がありました。 私が注目したのは、コメント欄。 何百人という人々がコメントしているのだけれど、それを読んでブログでも書こうかなー と思ったのでした。 私は温暖化というより「地球は寒冷化している」という意見の方に注目しています。 それはその辺のおじさんが言っている意見ではなく、 NASAも含む、さまざまな国の研究者たちが言っていることです。 観測史上 ”最低”の気温を世界各地で更新し続けていたり、海の海流の変化、 太陽活動のかつてない低下 (→雲の生成量に関係するのだそう)、 などなど。 気温の上昇も下降も、そもそも人間が居ようが居まいが、10万年単位で繰り返していることが分かっている地球の気温変動の一部である、というようなこともあるそうです。 すでに地球は2015年からミニ氷河期に入っている、という研究もあるそう。 因みに2011年(だったかな?)までは、気温上昇し続けていたそうです。 でも去年だって、過去最高気温を更新した場所もあるし、 アイスランドへ行って氷河を見たときに、地元の方が氷河の後退の話をしていました。 暑い!という方に注目してみると、自分の生活範囲の中でもいろいろ発見はあります。 寒い!とか曇りの日や雨の日のことに注目してみたら、どうでしょう。 NASAまでが寒冷化の立場をとっているのにも関わらず、 なぜ今だに 「地球は温暖化している」「氷がとけてホッキョクグマが住む場所がなくなる」 「海面上昇して住む場所を失う国の人々がいる」「CO2削減!!!」 という思想が目立つのでしょう? または目立つように見えるのでしょう? 世の中の本流(とされていること)とは異なる意見があることも知って、 ちょっと違う視点をもって、何故かなと考えてみたり、 じゃあ自分はどういう立場をとるか考えてみたり、 私はなるべくいろいろな角度から物事を見るようにしたいな、...

わびさび

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今日、近所にあるお茶室へ初めて伺いました。 普段着の洋服のまま、椅子に座って気軽にお茶とお菓子を楽しめる場所。 とは言え、お茶を出してくださるのはその道のプロの先生方です。 季節にピッタリの和装が、とても素敵でした。 そして、私はお茶のお作法など全く知らないので、教えていただきながら楽しみました。 たまたまお客様が私一人だったので、ゆったりといろいろなお話をしたのですが、 そののなかで、なるほどな~、と思ったこと。 「千利休は豪華なもの(質の良い本物という意味で)を知ったうえで わびさび、と言っているんですよ。」 なにごともそうですよね、という話になりました。 ピンもキリも知ったうえで、自分に必要なものを引いたり足したり、 丁度よい、心地よいところを探す、というか。 何かの世界を深く経験したり勉強し続けている方のお話は、 とても興味深いです。 お話の合間に、大きな開き戸から見えるお庭を静かに眺めました。 水の流れる音、風で揺れる木々、肌を通りぬける空気、いろいろな匂い、 頭の中がシーンと静まりかえり、浄化されるような数秒がありました。 わび・さび ≪侘 (び)・寂(び)≫ は、日本の美意識の一つ。 一般的に陰性、質素で静かなものを基調とする。本来は詫(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い。人の世の儚さ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている。 (Wikipediaより) ↑↑ この後に詫・寂それぞれの意味の説明が、なが~~~くされていました。 お煎茶の道具たち