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中心にあるもの

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今まで割と「自分の芯をしっかりさせる」「土台をしっかりさせる」 みたいな言い方をすることが多かった。 この間あることを考えながらノートに書いた言葉があって、 その言葉が最近の自分的にとてもしっくりきた。 「自分のなかの核」 この核のイメージは、ギュー――――ッと凝縮していて、すごくパワフルで、 エネルギーがあって、生命の源みたいな感じ。 自分の可能性を制限する感情や思考のヨドミは、 日常的にメンテしながらどんどん取り去って、どんどんクリアになって、 核のエネルギーを覆うものなく生きよう。

超高速で移動していることと歴史とか

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昔なにかで知ったことですっかり忘れていたことを、久しぶりに思い出した。 「あなたはいま椅子に座って動いていない、 と思ってますよね? いいえ、動いてます。 おおよそ秒速440mで移動してるんですよ。」 という内容。 地球の自転をあなたは感じていないですよ、ということだった。 ついでにこれを言った人は 「人間の感覚が正しいとは限らない」 という言葉も言っていた。 地球にいる存在は全員もれなく、1秒で440m移動している。 もしそれを外から見ていても、速すぎて見えないくらい速い。 こう書いていてまた思い出したけれど、地球がものすごい高速で動いているのを 映像にした作品も見たことがある。それは公転を描いたもの。 この映像は現在の天文学からすると正しいとか正しくないとかの議論があるようだけれど とにかく『動いているんだ』ということは分かる。 Youtube貼り付け以下 最初に書いた 「椅子に座って動いてないと思ってるかもだけど440m/秒で移動してるよ、あんた」 というものは、さとうみつろうさんの動画の中に出てきた。 ついでに、 もしこの動画を見た人は、ぜひ以下の動画も見てみると良いと思った。 この↑動画は多くの人が拡散していて見られているようだけれど、 以下の動画も、根深い背景を知るという意味でセットだな、と私は思う。 エネルギーに関する世界の構造がどうなっているのかの歴史の動画。 構造というのは、いわゆる利害関係で、儲かる人儲からない人、 新大陸発見や戦争の背景などの一側面が分かる。 だから石油が安くつくれるなんてことを一個人がすると 「危険」なんだ、ということが分かる。 しかもその一個人が日本人であるということも問題なんだろうな、と想像する。 歴史、 教科書で教えられるものや、今現在に本などで残っているもの、 それは過去のある時点で力を持っていた人たち側からみた歴史。 要はその人たちにとって、そう言っておけば都合がよかったり、 そう言っておけば自分たちのメンツが保たれる、といったもの。 AさんとBさんの喧嘩も、それぞれ言い分があるし、それぞれの立場や背景がある。 ・・・ 新大陸を発見し、 そこにいた野蛮な先住民たちと戦い、 勝ち、平和な国を作りました。 ・・・  ある日、見知らぬ大勢の人たちが突然やってきて、 出ていけと言われました。 自分たちの生活を守るために戦いま...

戦いとジェットコースター

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戦うことが好きな人 戦うことが嫌いな人 戦っている人を見るのが好きな人 戦いをつくることが好きな人 戦いによってお金を儲けるのが好きな人 戦うことが好きな人を撮影する人 戦うことが嫌いな人を撮影する人 戦っている人を見て楽しむ人を撮影する人 戦いをつくった人を撮影する人 戦いによってお金を儲けている人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人 ジェットコースターに乗っている人を見るのが好きな人 ジェットコースターをつくることが好きな人 ジェットコースターに乗ってもらいお金を儲けるのが好きな人 ジェットコースターに乗るのが好きな人を撮影する人 ジェットコースターに乗るのが嫌いな人を撮影する人 ジェットコースターに乗っている人を見ている人を撮影する人 ジェットコースターをつくった人を撮影する人 ジェットコースターによってお金を儲けている人を撮影する人 どのタイプを見かけることが多いか? 見かけないタイプはどれか? なぜそのタイプをよく見かけるのか? なぜそのタイプは見かけないのか?

光と闇の関係性

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「よい変化の前には、いつもストレスや悩みが増える気がする」 「セッション受けた後、道が開けるかと思ったけれど、別の問題が勃発した」 これらは実際に私に届いたメール(DM)。 これ、有り得ることです。 その度合いは人によるし、時にもよるし、 こういったことを全く感じない人もいる。 これに対しての私がよくする例えは以下。 部屋を掃除するときのことをイメージしてみて。 手を入れていなかった部屋があるとする。窓も雨戸も閉めっぱなしだった。 ある日そこを掃除することになった。 雨戸を開けて、部屋に外から光が入って明るくなった。 窓を開けて、部屋に風が通った。 そしたらどうなると思う?? 暗闇では気づかなかったけれど、チリ埃があちこちに溜まってるし、 家具にはなんか汚れがついてるし、しかも風で埃が舞って咳き込むし。 「うわっ汚なっ」と気づく。 光と風を通すことで、闇が動き出す。 光と風が入ったことで、闇に気づく。 でもこの汚れに気づいたわけなので、掃除したら綺麗になって気持ちよくなる。 せっかく気づいたので単に掃除してあげればいいだけ。 さっさと掃除して、さっさと終了する。 ここで「汚なっ」と思って「見ないふりしよ」と、また扉を閉めることもできる。 そうしたらまた闇をずっと持ち続けたままになるだけ。 しかも闇がそこにあることを気づいている状態で持ち続ける。 知ってるのにそのままにするって、私は気持ち悪いのだけれど、 平気な人もいるだろうし、 どうするかは自由に自分で決めたら良いと思う。 最初にも書いたけれど、皆がそうなるわけではない。 だって部屋の状態は人それぞれ違うし、部屋数だって違うし、 変化の前には何か起こると思い込んでいるかどうかも違うし、 さまざまな要因が違うから。 私が信じていることはひとつ。 「何が起ころうと、それはただの過程であって、すべては 自分にとって良い方向にいくために起こっていること」 そう思ってれば本当にそうなるんです。

原因と結果

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因果応報、すべて自分が源、原因と結果の法則、思考の現実化 言い方はいろいろあるけれど「起こったことには全て原因があるよ」という意味。 自分の身や自分の目の前に起こったことは、すべて自分が起点になっている。 誰かのせいでも、何かのせいでもない。 自分は無力な被害者ではない。 「これを食べたらお腹をこわした」 みたいな日常のささいなことも、その食べ物のせいではないし、 病気や事故であっても同じく。 「私は被害者」なのではない。 って、話していると 自分を責めなければいけないような気分になる人がいるかもしれない。 決して自分を責めるのではないのだけれど、 ここのところの説明をする時にしっくりくる言葉が いままでイマイチ見つかっていなかった。が、 最近、発見! 「自分を責めてくださいと言っているのではなく、 自分がつくった現実だ、ということを受け入れてください、 ということです。」 これ↑は、ミナミAアシュタールさんの話を聞いていて出てきたフレーズです。 「自分のせいなんだ」と落ち込んだり責めたりするのではなく、ただ単に、 「あ、私こんな現実つくってる」と、まずは受け入れる。 そこで終わらずそのあとが大切で、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」と考える。 加えて、 「私は本当はどうだったら心地いいんだっけ?」と考える。 「あーやばいやばい私こんな風にしちゃった」と、 グルグル落ちる方向に巻き込まれたままでいないこと。 いろいろ考えるのは当然なのだけれど、 考えるときの方向性、矢印の向きを間違えないこと。 そして忘れてはいけないのは、 「私がこの現実をつくってしまった」ということは、 「私は自分で現実をつくりだせる」ということ。 ヒーリング講座の受講生さんたちは 「現実は自分がつくっている」ということの意味や仕組みは知っているはず (覚えていなかったらテキストを読み返してネ)。 これは宗教的な考えでも、スピリチュアル的な考えでも、SF的な考えでもなく、 この世の中、この宇宙の仕組み。 いまの地球の物理学で分かっているところでいうと、量子力学の話。 私は、自分に起こる出来事を見て 自分の考えていること(考えていたこと)を知る、という時もある。 因みに、ヒーリング講座受講生さんたちは、 「私のどんな思考がこの現実をつくったかな?」の部分を 無意識下の領域からも探し出せる...

迷うってこと

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「迷うってことは、そっちも射程圏に入ってるってことだよね?」 これは昨日わたしの耳にポーンと入ってきた(印象的に)言葉。 Aという商品(高額、見た目よし、品質よし)と、 Bという商品(安値、見た目よし、品質そこそこ)があって、 そのどちらを買うか迷っていた人がいて。 その人と一緒にいた別の人が、その迷っている人に向かって放った言葉。 この件は、Aの金額で迷っている。 けれども迷うってことは、迷える範囲内の金額(払えないことはない金額)、ということ。 ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーったいに自分的に無理な金額だったら そもそも迷いもしないし、チラッと見て「ふーん、無し。はい次。」だろうと思う。 上記のことは購入するかどうかとか、お金の話だけれども、 これって割とすべてのことに通ずる話だと思った。 迷ったとき、どうする? 私は、迷ったときはGO、の時もあれば、迷ったときは一時停止、の時もある。 迷っている理由も色々な時があって、 本当にどっちになってもよくて迷っている、というときもある。 迷って一時停止した結果、少し時間が経ってからAでもBでもないCという新しい選択肢が やってきて、そのCがすごく良くて「あ~あの時AもBも選ばなくてよかった」となる時だってある。 自分的に、迷っているその奥にある感情とか感覚とか思考とか、などを よくよく観察したり、感じてみたりするといいなあと思います。

保護か捕獲か

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とあるものを読んでとても疑問がわいた。 大まかに言うとこんな内容だった↓ ”うちの庭に猫が遊びにくる。おそらく野良猫。遊びにくるのは二匹。 一匹で来るときもあれば、二匹一緒に来るときもある。 庭の居心地が良いようで、来るとゴロンくつろいでいたり、 遊んでいたりする。 保護したいのだけれど、保護するとなると二匹だし、 二匹保護する余裕はないので、どうしよう。” 私の疑問は「それって保護なの?捕獲なの?」というもの。 この猫たちは、おそらく野良猫なのだろう。言い方を変えれば、野生の猫。 怪我をして困っているふうでもなく、 食べるものを求めてきているふうでもなく、 ただ遊びに来ているだけ。 野良というか野生というか、そういう動物たちの保護活動を 私はしたことがないし、実態を詳しく知らない。 人間から見てどんな感じだったら「保護しよう」となるのだろう。 保護する側と、保護される側。 保護なのか捕獲なのか。 すっごくいろんな意見がありそうなことだなあ、と思った。 いろんな都合とか。 人間側にも、動物側にも、ね。 ここまで書いていて思ったけれど、 なんで猫と犬がそういう対象になっていて、同じく野生の鳥などは、 対象としないのだろう。 「猫と犬は人と一緒にいるもの。ウロウロしていてはいけないもの。」 みたいな考えがあるのかな?

ネットワークビジネス

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私はネットワークビジネス(MLM)という仕組みに対しての悪い印象は持っていない。 むしろ、 ネットワーク系の製品は質の高いものが流通していることが多い、 という印象を持っている。 私自身もネットワークの会社の製品をいくつか愛用しているし、 なかには20年くらい愛用しているものもある。 私と同じようなタイプの人もたくさんいると思うし、 ネットワークと聞いた瞬間に壁をつくるタイプの人もたくさんいるように思う。 壁を作る系の人の中には、ネットワークビジネスとねずみ講と悪徳商法などを 頭のなかでごちゃまぜにしているタイプもいるように思う。 そういう私でもネットワークなら何でも良いとは全く思っていない。 ゼロか100か、白か黒か、ではなく、様々な側面があるから。 その会社の質(理念、仕組みなど)、製品の質、 その製品を仕事として広めている人の質、 などによって、印象は大きく変わるし、使いたいかどうかも変わるし、 長く愛用するかどうかも変わる。 いくら質が良くても、その時の自分に合うかどうか、欲しいと思うかどうか、は、 また別の話だし。 ネットワークの製品は口コミで伝わって広がっていくものなので、 たまたま自分が触れ合った人によって、大きく印象が変わると思う。 私と縁があったものは、変な人はいなかったし、 買い込みをしなくちゃいけないような仕組みの会社もなかった。 (買い込みしている人は見たことがある。家の中がすごいことになっていてびっくりした。私は関わったことのない会社。) 例えば、自動車。 運転する人の質によっては殺人を起こすことも、物損を起こすことも可能。 自動車自体の質によっては、運転手の腕がよくても問題が起こる。 自動車メーカーの質によっては、コストを優先するあまり安全性に疑問が残ったり、 勤務環境が劣悪であったりする。 自動車=殺人兵器 にもなりえるし、 自動車=徒歩ではいけないいろんなところへ連れて行ってくれる有難い存在 にもなりえる。 ネットワークビジネスだって同じ話。 使い方次第、選び方次第、人次第。 なぜこのブログを書くことになったかというと、以下。 ある製品を一緒に伝える人を探しているから話を聞いて欲しい、とインスタdmが届いた。 知らない人だったが、きちんと自己紹介があったことと、なぜ私になのか、 自分はなぜそれをしているのか、などを読み、話を聞いてみる...

ともだち100人の歌

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 「一年生になったら」 作詞:まどみちお 作曲:山本直純 ともだち100人できるかな? という歌。初めて聴いたのがいつだったのか全く覚えていないけれど、 幼稚園か小学校低学年の頃なんだと思う。 少し前に、頭の中に「ともだちの人数」についてのいろいろが やけに巡っていたことがあって、この歌を思い出した。 今の私が思うことは、友達がたくさんいなくたっていいじゃん、という考え。 そもそも友達って何だろう、と言う話になっちゃうんだけれど。 どこからが友達で、知人で、仲間で、なんだろう。 まあとにかく、 昔の私はどう思っていたんだろう?あんまり明確に覚えていないけれど、 いなくてもいい、とは思っていなかった気がする。 友達人数が多いから良い、とか、多い方が幸せ、というような雰囲気の中には 居た気がする。 ともだち100人できるかな、の歌を聴きまくっていたとすると、 おそらく脳みその中は「たくさんいた方が楽しそう/幸せそう/良さそう」という 状態になっているんじゃないか。 ちょっと言葉は強いけれど洗脳状態みたいな。 私流に言うと「思い込みが作られている状態」みたいな。 もしそういう状態になっていたとすると、 いざ小学校に入学して友達と呼べる人ができなかった場合、 親は「友達ができなくて心配、不安、大丈夫か」となる人が多いだろうし、 それが子どもに伝わって、子ども自身も「友達ができないとダメなんだ」となって。 たくさんの人と一緒にいることが好きな人と、 一人でいることが好きな人と、たった一人の気の合う人とだけ居たい人と、 みんなの中にいたいけれどちょっと離れたとこに居るのが好きな人と、 時と場合による人と、 人によってそれはそれは様々だと思う。 それに、 小学1年生のクラス分けの中に気の合う人がたまたま居ない場合もある。 いきなり気の合う人だらけの場合もある。 高校2年生くらいになって、一人だけ気の合う人が見つかる場合もある。 何かで読んだ内容で「コミュニケーション障害とされている人は、障害なのではなく、 コミュニケーションを取れる/取りたい相手がたまたま今まで近くにいなかっただけ」 とあって私は共感した。 コミュニケーションの取り方だって人それぞれだから。 ”まあまあ誰とでもなんとなく当たり障りなくコミュニケーションを取れる人”  がいわゆる「普通の人」で、そ...

自分探しと自分剥がし

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「自分探し」ということで、旅に出たり、いつもと違うことをしてみたり、 気になるものを片っ端から学んでみたり。 でも。 外側のどこかには探している自分はいない。 そしてある時気づく。 「なんだ、私のなかに全部あるんだった。」 自分探し、という言葉を、自分剥がし、に変えてみる。 地球に生まれた瞬間から、周囲の大人たちによって刷り込まれていくアレコレ。 大人から刷り込まれ済みのクラスメイト達から言われる言葉たち。 自分の周りにペタペタと貼り付けていく、 常識・普通・一般的・平均的・道徳的・宗教的 などの自分を覆うラップのようなもの。 いつしかそのラップは『自分を守ってくれているもの』だと思うようになり 剥がすことが怖くなる。 変化が怖くなる。 同じようなラップを被った人と一緒にいることが安心であるかのように思う。 同じようなラップを被っていない人を見ると「変な人」だと思ったり、 「でもちょっとあこがれる」と思ったり、 「あの人を見るとイライラする」だったりもする。 自分を覆っているラップをもしも剥がしたら 何が起きると思う? どうなると思う? 私は、息がしやすくなって風通しがよくなって気持ちよさそうだと思う。 セルフヒーリング講座の受講生さんたちや、 私の個人セッションを受けた人たちが、 どんどん軽くなっていくのを見て、なんて気持ちよさそうなんだ! と思う。 そもそも、自分はラップに覆われている、と気づくかどうか。 気づく鍵は「あれ?」という疑問や違和感、モヤモヤ感。 その小さな「ん?」が起きた時、 「まあ、それが普通なんだししょうがないでしょ」 「そういうもんでしょ」 「気のせいかな」 と、流さないことも鍵だったりする。