概念と現実/座ZEN
先日、私としては珍しい行動をしました。
「これは参加したい!この人に会いたい!この場に行きたい!」と強く思ったワンデイリトリートがありわざわざ新幹線に乗って出かけたのです。(わざわざ何かのイベントなどに時間を合わせてお金を使って参加、ということは普段あまりしない)
ヨガ・感情リリース・座禅の内容で、それぞれのスペシャリストの方々とのトークセッションもあり、朝から夕方まで気持ちの良い空間を過ごすことができました。
最後の座禅は、京都の栖賢寺の住職 宗貫さんとの時間。
目を開いたまま瞑想をする、という感じの時間でした。このブログでも時々書いているように、私もほぼ毎日瞑想はしていますが、目は閉じています。何故なら、閉じたほうが集中できる気がしていたので。
座禅の前にあった宗貫さんのお話でとても心に残っていることは
”すべてをあるがままにしておく”
ということ。あるがままの現実をそのまま感じながら、ただそこに居る。それは、周りの音だったり目の前の景色だったり、肌で感じる湿度や、漂ってくる匂い、頭のなかに浮かぶ思考だったり。
それら全てのことを自分でどうこうしようとせず、ただそのままにする。その中で自分は座禅をする。
目を開いていたら私は空っぽになれない、と思い込んでいる節があった私としては、この座禅の時間がとても良い時間となりました。
今そのままを感じながら、自分の中がとても静かな時間を過ごすことができたと思う。これを書いている今日も、そのように瞑想をしてみました。
宗貫さんが「瞑想で目を閉じていても、それって瞼の裏側を見てるだけですから」とおっしゃっていたのが、確かに!という感じでちょっと面白かったです。
因みに、この座禅の時、若干の修行が私の身に起こりました。
「あるがままにそのままに」とかいうお話を聞いて頷いている最中に、少し大きめのクモが私の少し前を横切って、すぐ近くで停まった。虫が苦手な私は、ついいつものようにギョッとし、「座禅が始まってから私の方に来たらどうしよう」という不安が湧き出てきたのですが、不思議なことにこの時はその不安とかギョッとした感覚を流すことができたのです。
この ”流す”って、後で考えても ”その気持ちを抑え込んだ” とは違う感じで。だからなのか、そのクモは座禅の最中も視界には居たけれどそのままどこかに歩いていってしまった。
概念と現実、というお話を聞きながら ”コロナは概念☆プランデミック”の漫画のタイトルをつけた片岡ジョージさんのことを思い出し、あっぱれだわ~、などと連想していました。