お墓というモニュメントとは
「自分が死んで魂と言われるものになったとき、
お墓の中になんて絶ーーーーっっ対にいないよ」
あるときからこのように思っていました。いつからだろう、中学生とか高校生かな。
私の実家は両親それぞれ仏教のある宗派に属していて、寺院にお墓があります。
なので、いわゆる仏教的行事の時は(お盆とか、〇回忌とか)そのお墓へお参りに行くし、
自分が大人になってからは、ふと思い立ったときにお花とお線香を持っていったりも
しています。
因みに、現在のところ私自身は無宗教です。
私を火葬した後の骨は、海に撒くとか土にそのまま埋めるとかがいいなと考えています。
納骨のためのある特定の区画の樹木葬みたいなのは私はちょっと違うなと感じていて、もっと自然の中に自然に、というイメージを持っている。
上のように思い始めたのは、おそらく幼い頃から私の中に、ふつふつと違和感が芽生えていたからで、
行事とかお葬式とかでお墓の前に行くたびに
「この石の小さな空間の中にずっといるなんて、なんか変じゃない?ご先祖様たち本当にここにいるの?家にだってお仏壇があって、お仏壇にも毎朝お参りして、更にお墓にもして、一体どっちにいるわけ?変な事だらけ。私は死んだら身体から自由に羽ばたきたい。」
などなどと、長い年月をかけて私の頭の中に浮かんできていた。
それである時
”お墓とは死んだ人のためのものではなくて、生きている人のためのもの
生きている人が死んだ人達を忘れないようにするため、思い出すためのもの”
そのようにも考えるようになりました。どこかでそんな感じのことを読んで納得したのかもしれません。
宗教だってある一面はビジネスで、檀家になってもらい、お墓の土地やお墓自体の購入、
ある時期ごとにある行事や儀式への参加、などのことをしてもらいたいわけです。
(宗教否定とか嫌味で言ってるわけではなくて、世の中を見ていて、そうなんだろうなと私が個人的に感じていること。)
とはいえ、お墓の前やお仏壇の前へ行くと、手を合わせてご先祖様たちに感謝の気持ちを伝えたりもします。
お墓へお水をかけたり、汚れていたら掃除もする。
お墓やお仏壇の前に行かない時、普段自宅に居る時などでも、ご先祖様たちのことを想います。
身体を持った私という存在の遺伝子をつないでくれた。たった一人かけただけでも、
もしくは誰かや何かのタイミングがちょっとズレただけでも、私はここに居ないわけで。
これはとても壮大で、ご先祖様という特定の人間だけの話ではなくて、もう本当に、
すべて、が関わっている。ご先祖様が生きてきた瞬間瞬間の天候も、食べ物も、近所の人も
すれ違った人も、他の生物も、石ころも、家も家財も全部です。
「あのとき偶然靴紐がほどけて結びなおしたの。そうでなければ車にひかれていた」
みたいな話と同じです。そういうことの連続が今の私をつくっている。
話はずれましたが、とにかく私は死んで身体がなくなったあかつきには、
自由に羽ばたきます。
お墓とかお仏壇とか何かそういった物体的に狭い空間には絶対に居ないので、
私に関しては、そこにお金や時間を投じてもらう必要はまったく不要だな~
と考えています。
でもこれって私の死んだあとの話なので、
まだ生きている人が ”(私のためじゃなくて)自分のために”
なにかモニュメントが必要だしそこで私を想いたい、というのであれば、それはそれで
いいのかなあ、とも思います。ただ私はそこに居ないよ、ということだけは明確で。
こういう話って、それぞれの人が信仰しているものとか、死生観とかで、考え方がいろいろだと思います。
自分の肉体と自分の魂(ここでは”自分の”とする)のことなので、すごく個人的なことな
わけだけれど、おじいちゃんもおばあちゃんもお父さんもお母さんも皆
このお墓に入っているわけだから、自動的にあなたも、と、なりがちなんだろうなとも感じています。
先に書いたように”樹木葬用の場所として土地を確保して樹木を植えた場所への納骨”は
私は違和感があるのですが、かといって、自然界への散骨は死体遺棄みたいな話で違法で、
海や山への散骨は許可が必要だし、特定の業者の協力が不可欠だという認識でした。
が、いまは法律が変わったのですね。
骨を骨と分からない状態(パウダー状とか)にして撒くならば許可は不要なのだそう。
要は海や土に撒いて、後々それを他人が発見して「人骨だ!!死体遺棄事件だ!」となる
可能性を排除しておけばよいらしい。
もちろん撒く場所は、他人の私有地の場合はその人の許可が必要だし、漁業エリアや水源
の場所はダメ、などといったいくつかの決まり事はあるようです。
私は庭もないし土地も持っていないので、場所を考えておかなければいけませんね。
微生物が分解してくれて、地球の一部となり循環していける場所。
どこがいいかな。